2015/08/23
片原一色城/愛知県稲沢市
片原一色城跡には神明社があります。訪問日は2014年8月2日です。
▲城跡
城跡周辺は田んぼで、その中にポツンと神明社がある感じです。何か無いかとウロウロしましたが、城址碑や説明板などお城関係の物はありませんでした。

▲神明社社殿
訪ねた時は丁度社殿が新しくなっている所でした。
◆歴史◆
応永年間(1394~1428年の間)、橋本宣都寺が良王とともに尾張に来ました。
南北朝時代に尹良親王の子・良王を守り、津島四家七苗字と一緒に尾張に来たとされます。津島四家七苗字には、奴野屋城の大橋氏、荷之上城の服部氏が含まれます。ということで、南朝方として戦っていました。橋本氏の支城(儀長城、井堀城、三宅城)を地図に落とすと、三宅川沿いに一直線に並びます。それぞれの築城年代は不明ですが、三宅川の対岸からの侵攻に備えたように見えます。
※三宅川や支城は片原一色城の南東にあります。下の地図でも見えるようにしています^-^
橋本一巴が織田信長の鉄砲の師匠となります。
『信長公記』巻首の「上総介殿形儀の事」に、橋本一巴が登場します。若き日の織田信長は、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に師事したそうです。これは織田信長が16~18歳頃の事とされており、まだ家督を継ぐ前の事です。
1558年、橋本一巴が浮野の戦で討死しました。
浮野の戦は、織田信長が岩倉城主・織田信賢と戦った戦です。この戦は織田信長が勝利し、上四郡も手に入れて尾張統一を果たしました。岩倉城方には山内一豊の父・盛豊と堀尾吉晴の父・泰晴も参戦していたそうです。橋本一巴は弓の達人・林弥七郎と鉄砲隊弓の一騎討ちを行い、相討ちとなりました。相手が弓の達人なら市川大介の出番のような気がしますけど・・・w
1596年、橋本道一が肥前で没しました。
橋本一巴が討死した後、橋本道一が家督を継ぎました。橋本道一も鉄砲の腕が優れていたようで、朝鮮出兵の際に鉄砲頭に選ばれていました。しかし、海を渡る前に肥前で病没しました。
1615年、廃城となりました。
江戸幕府による一国一城令により廃城となりました。現在は城跡に神明社があり、東のちょっと離れた所に城址碑があります。訪問時に分からず、後からGoogleマップのストリートビューで見つけましたが

所在地:愛知県稲沢市片原一色町(神明社)
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