fc2ブログ

片原一色城/愛知県稲沢市

片原一色城跡には神明社があります。訪問日は2014年8月2日です。

片原一色城/①城跡
▲城跡

城跡周辺は田んぼで、その中にポツンと神明社がある感じです。何か無いかとウロウロしましたが、城址碑や説明板などお城関係の物はありませんでした。

片原一色城/②神明社社殿
▲神明社社殿

訪ねた時は丁度社殿が新しくなっている所でした。


◆歴史◆

応永年間(1394~1428年の間)、橋本宣都寺が良王とともに尾張に来ました。

南北朝時代に尹良親王の子・良王を守り、津島四家七苗字と一緒に尾張に来たとされます。津島四家七苗字には、奴野屋城の大橋氏、荷之上城の服部氏が含まれます。ということで、南朝方として戦っていました。橋本氏の支城(儀長城、井堀城、三宅城)を地図に落とすと、三宅川沿いに一直線に並びます。それぞれの築城年代は不明ですが、三宅川の対岸からの侵攻に備えたように見えます。
※三宅川や支城は片原一色城の南東にあります。下の地図でも見えるようにしています^-^

橋本一巴が織田信長の鉄砲の師匠となります。

『信長公記』巻首の「上総介殿形儀の事」に、橋本一巴が登場します。若き日の織田信長は、弓を市川大介、鉄砲を橋本一巴、兵法を平田三位に師事したそうです。これは織田信長が16~18歳頃の事とされており、まだ家督を継ぐ前の事です。

1558年、橋本一巴が浮野の戦で討死しました。

浮野の戦は、織田信長が岩倉城主・織田信賢と戦った戦です。この戦は織田信長が勝利し、上四郡も手に入れて尾張統一を果たしました。岩倉城方には山内一豊の父・盛豊と堀尾吉晴の父・泰晴も参戦していたそうです。橋本一巴は弓の達人・林弥七郎と鉄砲隊弓の一騎討ちを行い、相討ちとなりました。相手が弓の達人なら市川大介の出番のような気がしますけど・・・w

1596年、橋本道一が肥前で没しました。

橋本一巴が討死した後、橋本道一が家督を継ぎました。橋本道一も鉄砲の腕が優れていたようで、朝鮮出兵の際に鉄砲頭に選ばれていました。しかし、海を渡る前に肥前で病没しました。

1615年、廃城となりました。

江戸幕府による一国一城令により廃城となりました。現在は城跡に神明社があり、東のちょっと離れた所に城址碑があります。訪問時に分からず、後からGoogleマップのストリートビューで見つけましたがあせる


所在地:愛知県稲沢市片原一色町(神明社)

愛知県の城跡/なぽのホームページを表示

コメント

非公開コメント

プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

ホームページ紹介

なぽの城跡巡り・トップページ
これまで私が訪ねた城跡を紹介しています。ブログで紹介したお城もすべてココから見に行けるようになっています。是非遊びに来て下さい!

北海道・東北地方
関東地方
中部地方
近畿地方
中国地方
四国地方
九州地方・沖縄

プライバシーポリシー
本サイトについて
お問い合わせフォーム



検索フォーム

QRコード

QR