2015/08/22
蟹江城/愛知県蟹江町
蟹江城跡は住宅街の中にあります。訪問日は2014年8月
▲案内
蟹江城の案内が県道に出ています。・・・しかし、案内はここまで。この矢印通りに脇道に入ると、コテコテの住宅街です。しかも道は細く、どっちへ向かえばいいのかと途方に暮れます。

▲説明板
それでもめげずにウロウロしてようやく見つけました。ここは車だとキツそうな位に道が細いです。説明板綺麗だし、やっと見つけたのでちょっとだけハッピーな気分になれました


▲城址碑
城跡とされる場所には、とても立派な城址碑があります。・・・向こう側の道は車で普通に走れるっぽいです(爆)

▲城跡の様子
城跡とは言っても、住宅街の家2軒分のスペースをやっと確保したような感じです。こうやって心置きなく来ることが出来るのは嬉しいですがwただ、地図見てるとちょっと上の水路の形が気になります。もしかして、蟹江城の主要部はそっちのような気が・・・

◆歴史◆
蟹江という地名は、蟹が沢山居たことが地名の由来なんだそうです。かつては海岸沿いの町であり、木曽川、長良川等の河口部には島が点在していたそうです。
永享年間(1429~41年の間)に北条時任により築かれたとされます。
北条時任は鎌倉幕府最後の執権・北条高時の孫とされます。北条高時の次男・時行は鎌倉幕府滅亡後、信濃に移り中先代の乱の盟主として担がれました。室町幕府初期は支配基盤が脆弱なため、後醍醐天皇や将軍兄弟による戦いが続いていました。反室町幕府勢力にとって、北条得宗家の子孫は旗印として最高に担ぎ甲斐のある血筋ですね。津島周辺の大橋氏や服部氏らの土豪達も南朝方だったので、流れとしてはアリだと思います。北条時任は愛知郡横江村に移り、子孫は海西郡赤目城に移って横井氏を名乗りました。
1555年、今川義元方の三河衆に攻められました。
織田信秀が没した後、今川義元は三河を通じて尾張への勢力拡大を図りました。鳴海城の山口教継が織田から今川に寝返ると、近くにあった大高城を攻略しました。更に、知多半島にも調略の手を伸ばし、緒川城の水野信元以外の水野氏は今川方となりました。この流れの中で、今川義元に従う三河の松平家臣が蟹江城を攻めました。この時に活躍した三河方の武将は「蟹江七本槍」と賞賛されています。7人中4人が大久保姓で、さらに阿部忠政も本姓は大久保なんだとか。大久保氏大活躍です

1559年、滝川一益が城主になったと思われます。
文献も史料も混乱しているので、ここは推測です。滝川一益の出自は謎ですが、伊勢、志摩または甲賀の出身とされています。・・・要はわからないんですw滝川一益は鉄砲の腕を買われて織田信長に仕えました。蟹江城に居たのは確かなようで、その後、伊勢方面への侵攻を担当しています。後世に近在の前田氏をたやすく調略しており、血縁があったと思われるフシがあります。また、あちこちで「服部友貞の資金で蟹江城を築き、その後追い出した」と書かれています。海西郡で独立していた服部友貞に近づき、その支配地域乗っ取りを企んだ、のかもしれません。以後の服部党の抵抗ぶりが、そんな事があったのでは?と想像させます。
1560年、桶狭間の戦で服部友貞は今川義元に味方しました。
この時に蟹江城が攻められたのかは不明ですが・・・織田信長が桶狭間の今川義元を討ったのは奇襲攻撃によるものでした。清洲城からの出陣は、ちゃんと付いて来れたのは5騎と言われる位に急でした。もしかしたらですが、織田信長は服部友貞が清洲城を襲うのを警戒したのかもしれません。うかつに全戦力を三河国境に動かしたら、尾張国内はガラ空きですからね。今川義元が討たれたことにより、服部友貞は兵を退きました。
1561年、服部友貞が長島城代となります。
本願寺一族である願証寺の証恵が伊藤氏から長島城を奪いました。門徒でもあった服部友貞が長島城の城代となりました。
1565年、滝川一益らが服部友貞が留守の間に荷之上城周辺を奪いました。
滝川一益が服部氏の本拠である荷之上城周辺を奪いました。荷之上城を挟むように鯏浦城と古木江城を築き、織田信興(信長の弟)が城主となりました。
1568年、服部友貞が謀殺されました。
北畠具教へ年賀の挨拶をするため、伊勢の霧山城へ向かっている途中の事でした。織田信長が差し向けた刺客に追い詰められ、米野の陰涼庵で自害しています。この頃の北伊勢は、滝川一益によりほぼ制圧されていました。
1570年、長島一向一揆が蜂起しました。
織田信長が浅井・朝倉連合軍と近江で戦ってる最中に、一向一揆が蜂起しました。一揆勢は長島城の対岸にある古木江城を包囲し、織田信興を自害に追い込みました。これは本願寺が織田信長に対決姿勢を明確に示したことによります。滝川一益は桑名城で一揆勢に包囲されており、援軍を出すことが出来ませんでした。
1571年、第一次長島攻めが行われました。
織田信長は軍備を整えて、5万の大軍で長島の一向一揆を攻めました。しかし、地形により思うように攻められず、数日で退却せざるを得ませんでした。この退却の際にゲリラ攻撃を受け、柴田勝家が負傷し、氏家卜全が討死しています。
・・・周辺では大きな事件が続きますが、蟹江城に関わるものがなかなか出てきません

1572年、三方ヶ原の戦(vs 武田信玄)
1573年、武田信玄が没する
1573年、朝倉義景、浅井長政を滅ぼす
1573年、第二次長島攻が行われました。
織田信長は足利義昭はじめ、難敵を次々と倒してから長島を攻めました。今回は北伊勢の敵対する土豪達を降伏させ長島城の孤立化には成功しましたが・・・船頭達の協力を得ることが出来ず、海上までは封鎖することが出来ませんでした。そのため、再度の撤退を余儀なくされています。
1574年、第三次長島攻めが行われ、一向一揆を平定しました。
織田信長は7万の軍勢で長島一帯を包囲しました。今回は前回の反省を踏まえ、地元の船頭ではなく、自前の水軍で海上を封鎖しました。その水軍を率いたのが滝川一益と九鬼嘉隆です。兵糧攻めにした後、城ごと一揆勢数万人を焼き殺すという凄絶な戦いでした。これにより「市江島から南に人影なし」と言われ、しばらく無人状態が続きました。
1580年、本願寺の顕如が織田信長に降伏しました。
1582年、本能寺の変
1583年、佐久間信栄が城主となりました。
賤ヶ岳の戦の後、滝川一益は羽柴秀吉との争いに敗れました。城主には佐久間信盛とともに追放されていた信盛の嫡男・信栄が就きました。
1584年、蟹江合戦がありました。
羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が対立し、小牧・長久手の戦が始まりました。この戦の中で、蟹江城を舞台とした局地戦がありました。蟹江城主・佐久間信栄が留守の間に、滝川一益が守将・前田長定を寝返らせました。滝川一益はこの他、織田信雄方であった九鬼嘉隆の水軍と下市場城、前田城も調略しました。そのため織田信雄・徳川家康連合軍に攻められ、秀吉の援軍が間に合わず落城。城の明け渡しの際、退去する前田長定が斬られました。前田本家筋は他の城でも討死し、生き残った前田長種が前田利家を頼って加賀へ移りました。
1586年、廃城になったと思われます。
天正大地震により壊滅的被害を受けたことによります。この時期は尾張も北伊勢も織田信雄の勢力圏でした。存在意義を失っていたこともあり、そのまま廃城になったと思われます。
所在地:愛知県海部郡蟹江町蟹江本町
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