2015/08/16
荷之上城/愛知県弥富市
荷之上城跡は、服部家住宅となっています。訪問日は2014年8月2日です。
▲長屋門
服部家住宅は江戸時代の大庄屋を務めた服部氏の屋敷です。説明板によると、建てられたのが天正4年(=1576年)のとても古い屋敷です。修築等の記録も残っている貴重な建築物ということで、重要文化財に指定されています。見学は事前の予約が必要ということですが・・・建物自体に興味が沸かず、パスしました


▲堀跡
弥富インター付近から北西に伸びる真っ直ぐな道沿いに、この堀跡があります。田んぼの真ん中を突っ切っているので、後世につけられた道なんでしょうね。現在では堀跡が表、長屋門が裏のような感じになっています。
◆歴史◆
津島四家七苗字の服部氏の本拠でした。
築城年代は不明です。城主は津島四家七苗字の一家である服部氏です。津島四家七苗字の武士達は、南北朝時代に良王とともに津島に移り住んだと伝わります。良王は南朝方として各地で戦った尹良親王の子です。この言い伝え通りであれば、時期は西暦1385~1400年の間と思われます。
ただ、津島四家七苗字の大橋氏が奴野屋城を築いたのが1332年とされます。一緒に津島に移って来たのであればこの頃ということになるのですが・・・よくわからないですね┐(´∀`;)┌
良王は津島神社の神主となり、服部氏は天王祭を主催するようになりました。天王祭の起源は不明ですが、1522年には既に催されていた記録があります。
津島四家七苗字の武士達は、織田信長の祖父・織田信定と争っていました。中島郡、海西郡を中心に勢力を拡大し、津島湊を手に入れようとしたためです。織田信定は尾張下四郡の守護代・織田大和守家の庶流で、三奉行の一人でした。
1524年、織田信定は津島四家七苗字らと早尾東城で戦い、和睦しました。この時、津島四家七苗字の長老格であった大橋氏に娘を嫁がせています。大橋氏は織田信定と和解したようですが・・・服部氏はそうではなかったのかもしれません。その後も津島の南にある「河内」の地で独立を保ち続けました。
1560年、桶狭間の戦で、服部友貞(左京進)は今川義元に味方しました。この頃、山口教継が大高城、鳴海城を奪い、知多半島も制圧しました。服部氏は津島の南側で今川義元に味方したため、織田信長は津島の湊を封じられました。津島の経済力を背景に勢力を拡大した織田信長にとっては、大打撃となっています。服部軍は海から大高城へ出陣したそうですが、今川義元が討ち取られたため退却しました。
1565年、服部友貞の不在を衝き、織田軍が市江島に侵攻しました。
戦に勝利した織田信長は、市江島に古木江城と鯏浦城を築きました。両城は荷之上城を囲む位置にあります。服部友貞は、一向宗の願証寺が伊藤氏から奪った長島城の城代に迎えられました。
1568年、服部友貞が織田氏の刺客に討たれました。北畠具教に年賀の挨拶をしようと霧山城へ向かう途中でした。服部党は以後も織田信長への抵抗を続けました。
1570年、長島一向一揆が蜂起しました。これは織田信長が本願寺と石山合戦を始めた事によります。一向一揆勢は、長島城の対岸にある古木江城や桑名城を攻めました。この時、織田信長本隊は近江で浅井・朝倉連合軍と戦っている最中でした。古木江城の織田信興(織田信長の弟)が戦死しています。
1574年、廃城になったとみられます。
織田信長による第三次長島一向一揆討伐で、長島一帯の一揆勢は皆殺しにされました。その苛烈さは「市江島から南に人影なし」と言われた程です。弟・織田信興を殺された恨みによるのではないかと考えられています。この戦いにより、武装集団としての服部党は滅ぼされたと思われます。
1576年、服部正友が城跡に屋敷を建てました。
無人と化した市江島に服部正友が戻り、人を集めて開拓を始めました。もちろん織田信長の許しがあっての事ですが・・・ここがちょっと疑問なんですよね。
「服部正友」という名前から、服部友貞とかなり近い血縁にあったと思われます。弟を殺された恨みで一向一揆を殲滅したのなら、服部氏の旧領復帰を許すとは思えません。ただ、服部党が一枚岩でなかった可能性も無きにしもあらず・・・織田信長に味方した服部氏の一族が居たのかもしれません。
桶狭間の戦で今川義元への一番槍をつけた服部小平太が、津島服部氏の一族とされています。佐久間氏の家老にも服部氏が居るので、服部氏は既に各地に分散していたのでしょうけど。
服部正友の家系は江戸時代には大庄屋を務め、津島神社の天王祭を主催しています。当地に建てられた屋敷は現存しており、重要文化財に指定されています。
所在地:愛知県弥富市荷之上町(服部家住宅)
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント