2015/08/16
赤目城/愛知県愛西市
赤目城跡には赤城神社があります。訪問日は2014年8月2日です。
▲遠景
お城があった所に赤城神社があります。ちょっと離れた所から見ると、田んぼの中の微高地ですね。あまり大きくないので、お城や砦というよりも屋敷だったのかと思います。・・・その境界が何なのかは今でもサッパリわかりませんが


▲説明板
近づいてみると、ちょっと高くなっているのがわかります。石積みは後世に土が崩れるのを防ぐために施工されたのでしょうか。神社の入口に赤城神社と横井氏についての説明板があります。

▲赤城神社
そして、階段を登ると小さな祠が2つ並んでいます。これは八幡神社と赤城神社を合祀したためでしょうか。合祀といっても、ご神体はきっと別々なんでしょうね。・・・神社にあまり興味がなくてスミマセン


▲一心寺の山門
近所の一心寺に赤目城の門が移築されているというので見に行きました。お城の移築門はよく山門(入口の門?)にされていることが多いのです。事前に拝見したよそ様のサイトに載ってたのと形は似てる・・・けど何か違う感じ。そう思って門に近づいた時に、丁度お寺の方がいらっしゃったので訊いてみました。

▲一心寺境内にある門
やはり時々お城の門を見に来る方が居るとのことでした。山門をくぐって本堂の奥にある墓地の入口にこの門があります。よそ様のサイトで見た門がこれでした。しかし・・・お寺の方曰く、お城の門はもう無いのだとか。古くてボロボロになったので、建て替えたのだそうです。デザインは同じにしてもらったそうですが、本物は現存はしていません

◆歴史◆
1493年、横井時永により築かれました。
横井氏は、鎌倉幕府の執権を務めた北条得宗家の末裔と称しているそうです。中先代の乱で担がれた北条時行の子が蟹江、後に横江村に土着。その5代目の子孫が横井時永なのだそうです。・・・年代的には合ってそうな感じです。横井時永は海西郡と海東郡の2郡を領有し、1519年に没しています。
この年代の尾張は、斯波義寛が守護を務めていました。室町幕府の中心的な役割を果たしており、将軍・足利義材の六角氏討伐では主力でした。1493年に細川政元が明応の政変を起こし、足利義澄が将軍に擁立されました。これにより幕政の中心から外れ、朝倉氏景に奪われた越前回復が絶望的になった時期です。
2代目城主、横井時勝は足利義輝に仕えました。
足利義輝が将軍だったのは1546~65年の間です。初代の横井時永が1519年に没しているので、その後の家督を継いだと思われます。1524年のあった織田信定と津島四家七苗字の争いでは、横井氏の名前が出てきません。すぐ近所であった戦なのですが・・・横井氏は斯波氏に仕えており、そのため在京していたのかもしれません。
その後、尾張では守護の斯波氏が傀儡と化し、織田信秀が台頭しています。織田信秀は1530年代に今川氏豊の那古野城を奪い、清洲城の織田大和守家とも戦っています。織田信秀が没した後の1554年、清洲城で織田信友が守護・斯波義統を暗殺。斯波義統の子・義銀は織田信長を頼り、1555年、織田信長が清洲城乗っ取りに成功しています。
3代目城主、横井時延は織田信長に仕えました。
横井時延はもともとは足利義昭に仕えていました。足利義昭が将軍だったのは1568~88年の間です。1570年頃から織田信長と対立し始めたので、この頃には織田信長に鞍替えしたのでしょうか。横井時延は1579年、丹波攻略の際に討死しています。
4代目城主、横井時泰は織田信長、織田信雄、徳川家康に仕えました。
時代の荒波を上手く乗り切った印象があります。1584年にあった小牧・長久手の戦では徳川家康に味方しています。関ヶ原の戦では福島正則隊に属し、戦功により弟達が藤ヶ瀬と祖父江に所領を得ています。その後の横井氏は尾張藩に属し、明治時代まで続いたそうです。
所在地:愛知県愛西市赤目町(赤城神社)
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