2015/08/09
吉根城/名古屋市守山区
吉根城(きっこじょう)跡には神明社があります。2014年8月3日です。
▲城塁
北野神明社は、周囲よりも少し高い所にあります。この神社の周りはこんな感じで、いかにも城塁的な感じがします。

▲溝
さらに、神社の前にはこんな溝があります。・・・空堀でしょうか?wお城の規模に対して不釣合いな位に深いです。

▲神明社
城跡に鎮座する神明社です。この地には1724年に遷座されたそうです。それまでどうだったのか気になりますが・・・城跡ということで誰も耕さなかったのか、城主の子孫が住んでいたのか。神社を置くことで、誰もこの土地に手を出そうとしなくなる効果はあると思います。

▲山之神社
境内の一番高い所に、山之神社があります。城内で最も見晴らしが良さそうなので、物見櫓的なものがあったかもしれません。
◆歴史◆
北野彦四郎の城と伝わります。
あちこちで「織田信雄分限帳に書かれているだけで、あとは不明」と書かれている人物です。『織田信雄分限帳』(1585年)で、「キッコ、イワイノ郷」合わせて260貫と書かれています。そこそこの所領を治めていたのではないでしょうか。他に何かないか?と調べてみたら、ちょくちょく出てきました。年代的には1584年にあった小牧・長久手の戦にまつわるエピソードです。
(1)織田信雄が三家老を手打ちにした時の事
羽柴秀吉は、織田信雄の戦力ダウンを図るため、織田信雄の三家老に調略を仕掛けました。三家老(岡田重孝、浅井長時、津川義冬)は織田信雄への忠義を貫きましたが・・・この動きを察知した織田信雄は、三家老を疑って伊勢長島城へ呼び出して殺してしまいました。織田信雄が『愚将』と呼ばれるゆえんです。他にも愚行はいくつもありますが・・・w
このため岡田重孝の弟・岡田善同が、本拠地である星崎城に篭城し抵抗しました。この篭城戦に参加した将の中に「北野彦四郎」の名があります。(美濃国諸旧記)岡田善同は江戸時代初期に美濃国揖斐郡の代官となっており、その来歴の中に書かれています。星崎城での篭城戦は降伏・開城し、岡田善同は肥後に移って佐々成政に仕えました。
(2)同じく小牧・長久手の戦で、池田恒興らが討死する直前の事
小牧で戦線が膠着していた時、池田恒興が徳川家康の本拠・岡崎を奇襲する策を献じました。この策が羽柴秀吉に採用され、池田恒興は森長可とともに三河へ向け移動を開始しました。この時、移動経路にあった織田信雄方の吉田城、上条城、大留城を味方にしようとしました。ここらは小坂雄吉の勢力圏でしたが、小坂雄吉は織田信雄の命令で伊勢に出陣していました。池田恒興は、留守を預かっていた森川権右衛門(=権六)、村瀬作右衛門を調略したのです。彼らには勝利の暁には5万石を与えると約束したそうです。大留城の村瀬氏は乗り気でしたが、森川氏はこの調略を巡って意見が割れました。
小説などではこの時、森川権六と親しかった北野彦四郎が登場します。北野彦四郎は森川権六配下の郷士達を説得して回ったのですが・・・その手法は利で釣るというより、力を背景とした脅迫だったそうです。反発した郷士達は、極秘情報である池田恒興の三河奇襲を徳川家康に密告しました。奇襲がバレた池田軍は長久手で大敗し、池田恒興や森長可ら大物が次々に討死しました。全く根拠が無い訳ではないのでしょうが、小説なので真偽の程には「?」が付きます

(3)織田信雄分限帳に北野彦四郎が登場します。
小牧・長久手の戦の翌年に記されたとされる『織田信雄分限帳』に、北野彦四郎が登場します。主である岡田重孝が手打ちにされ、岡田善同が肥後に移った後も尾張に残ったのですね。小牧・長久手の戦の停戦条件として、吉田城や大留城の廃城が盛り込まれていました。これらの城は織田信雄方から羽柴秀吉方に寝返ったり、寝返りそうになった所です。本来の領主である小坂雄吉はとんだとばっちりでしたが・・・吉根城や大留城は、庄内川を挟んですぐ近くにありました。推測ですが、羽柴秀吉が彼らを監視するために吉根城を築かせたのではないかと思います。織田信雄の支配地域なので、城主には元家臣だった北野彦四郎が当てられたのだと思います。北野彦四郎のその後はサッパリわかりません。
所在地:愛知県名古屋市守山区吉根(神明社)
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