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藤森城/名古屋市名東区

藤森城跡には藤森神明社があります。訪問日は2014年8月4日です。

藤森城/①藤森神明社
▲藤森神明社

城跡にあるとされる藤森神明社です。ここは複数の神様が祀られているのだそうで・・・猿投大明神社や白山宮、富士浅間社、山神社、天道社などなど。

藤森城/②結構な高さがあります
▲結構な高さがあります

この藤森神明社の正面は、こんな感じでかなりの高低差があります。まさにお城を築くには最高!って感じです。色んな神社がここに集められたのは、洪水の被害から守るためだったそうです。元々は西の低い所にあったそうで・・・廃城後に「あっ、空いた」って感じだったのでしょうか?w


◆歴史◆

1584年、池田恒興の将・小関三五郎が落ち延びて築城。
1589年、小関三五郎は戦の傷が元で没し、廃城となった。

ググっても出てくるのはこれだけです。
でも、素朴な疑問が頭から離れません。

・・・「小関三五郎」って誰?
・・・戦の前はどこに居た?
・・・なぜここに落ち延びた?
・・・落ち武者がなぜ5年も喰い繋げた?

小関三五郎でググっても何も出てきません。池田恒興の家臣団なんて所にも出てきやしません。でも、???だからこそメラメラメラメラちゃいます!

そこで、近所の歴史を漁っていたら、それっぽいのがいくつか出てきました。

まずは、その名も「小関城」というのが、西に5kmの千種区にありました。この小関城の城主は小関源五左衛門で、織田信長に仕えたとも福島正則に仕えたともされます。・・・既に謎めいていますがw福島正則に仕えていたのであれば、羽柴秀吉陣営の人物ですよね。小関三五郎ともつながりがありそうな感じがプンプンします。

もう1つ出てきたのが大森城の「尾関勘八朗」で、すぐ東の守山区に居ました。1460年頃に東の新居城を攻め、逆襲にあって大森城を攻め落とされています。この時、親類である小関氏の城へ逃れたという伝承があります。「小関氏」も「尾関氏」も「おぜき」と読みます。この大森城は、藤森城の北北西3kmの所にありました。

これらからすると、この辺り一帯は元々小関氏の支配地域だったという事ですね!すぐ近くの上社城は既に廃城となってかなりの年月が経っていました。また、小牧・長久手の戦で池田恒興の道案内をした猪小石城の横地秀次は美濃へ去りました。小関氏の支配地域のすぐ南には、こうしてちょっとした空白地帯が出来ていたのです。

な~んて想像を膨らませていたのですが・・・たまたま検索に引っ掛かったお寺の情報で全部ひっくり返りました。それは、小関三五郎のお墓のある了玄院についての情報です。

このお寺は上社城主・加藤勘三郎と藤森城主・小関三五郎が1470年に開基したのだそうです。その両名のお墓もあり、小関三五郎の没年は1474年だというのです。小牧・長久手の戦いの100年以上も前です。その小関氏が代々「三五郎」を名乗り1589年まで続いた、とも考えられますが・・・w


所在地:愛知県名古屋市名東区本郷1丁目(藤森神明社)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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