2015/07/20
星崎城/名古屋市南区
星崎城跡には小学校があります。訪問日は2014年8月4日です。
▲笠寺小学校
まずはこの小学校を目指します。かなり大きなランドマークなので探しやすく、迷子レベル高めでも辿り着けました^^ただ、小学校の周りでカメラ持ってウロウロするのって、どう見ても怪しい・・・wさっさと城址碑撮って退散しよう



▲城塁
さて、城址碑はどこだろう?と周囲の徘徊を始めます。ですが、見えるのはこんな段差のある地形ばかり。南西角では、左を見ても右を見てもこんな感じです。これって、まさにお城地形ですねヽ(´∀`)ノ

▲怪しげなコーナー
見渡す限りの城塁。うーん、どこだろう?とウロウロしていると、南東側に階段がありました。素直にカクッと曲がらず、角を凹ませている辺りがお城っぽいですね^^

▲門の内側に!
そこにある階段の奥に門があり、ちょっとばかし木々が濃い感じ。もしかしたらとその階段を登ると、門の右脇にありましたヽ(´∀`)ノその門には「学校に用のある方は必ず職員室へ・・・」云々。用があるのは学校ではなく城址碑ですwww

▲城址碑と説明板
・・・という感じなので門を開ける訳にもいかず、ズームで撮りました。最近のコンパクトカメラって性能良くなりましたよね




◆歴史◆
治承年間(1177~81年の間)、山田重忠により築かれました。
山田氏は源満政の流れを汲み、尾張国山田庄水野を本拠とする尾張源氏です。山田重忠は泉重忠とも呼ばれていました。山田氏の支配地域に碧海郡和泉村も含まれており、この辺りを所領としていたかもしれません。
山田氏は源平合戦では源行家に従っていました。木曽義仲が滅ぼされた後、山田重忠は山田郡の地頭に任命されました。地頭に補任された時期はハッキリしませんが、1184~92年の間と思われます。父・山田重満は1181年の墨俣川の戦で討死しており、家督と所領を引き継いだのでしょうか。おそらくこの時に、それまでの居城であった星崎城が廃城になったと思われます。
尚、山田重忠は1221年にあった承久の乱では宮方として参戦し、京で自害しました。しかし、その後も山田氏は続き、子孫は岡田氏を名乗っています。
1552年頃、山口教継の家臣・花井右衛門兵衛が城主となりました。
織田信秀が没すると、重臣だった山口教継が今川義元に寝返りました。守将を任されていた鳴海城を中心に、次第に周辺の城を取り込んでいきました。織田信長が家督を継いでから、最初に戦った相手が山口教継です。
1559年頃、岡田重善が城主となりました。
岡田重善は、1542年に今川義元と戦った時に活躍した「小豆坂七本槍」の一人です。笠寺周辺は山口氏の支配地域ですが、織田方と今川方に割れていたようです。織田方であった山口重俊が、今川方に寝返った戸部城を攻めた際に討死しました。その嫡男である山口重勝は10歳そこそこ・・・推測ですが、対今川軍の前線基地に武勇に優れた岡田重善を配置したのだと思います。
岡田重善は武勇のみならず、歌道・風流にも通じた武将だったそうです。織田信長が没した後は織田信雄に仕え、その家老となっています。岡田重善が1583年に没すると、その嫡男・岡田重孝が家督と家老職を継ぎました。
1584年、山口重勝が城主となりました。
羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康が対立し、小牧・長久手の戦いが起きました。この時、羽柴秀吉は織田信雄の弱体化するため、三家老を懐柔しようとしました。三家老は織田信雄に忠誠を誓い、羽柴秀吉の調略を突っぱねたのですが・・・この動きを疑った織田信雄は、伊勢長島城で三家老を謀殺してしまいました。三家老の一人であった岡田重孝の弟・岡田善同が星崎城に篭城しましたが、降伏しました。
星崎城は、この辺りの元領主で寺部城主・山口重勝のものとなりました。山口重勝は岡田善同とともに星崎城に篭城していたそうですが・・・家族を置き去りにして城から逃げ出したと伝わっています。養子である山口重政が蟹江合戦で大野城を死守した功により、面目を施されたのだとか。この2年後、山口重勝は山口重政に家督を譲って隠居しました。
1588年、廃城となりました。
山口重政が伊勢の茂福城と所領を交換したため、廃城となりました。その2年後、織田信雄が改易された際、山口重政は下野まで従ったそうです。後に徳川秀忠に仕え、常陸牛久の藩主となりました。そこで大久保長安事件(1613年)に巻き込まれて改易されましたが・・・大坂夏の陣(1615年)で活躍し、牛久1万5千石の大名に復帰しています。
所在地:愛知県名古屋市南区本星崎町(笠寺小学校)
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