2015/07/12
戸部城/名古屋市南区
戸部城主の石碑が住宅街にありました。訪問日は2014年8月4日です。※2016年4月に石碑は北の富部神社へ移転しました

▲住宅街の一角
戸部城は住宅街の一角にありました。城跡には全く見えない空き地ですね。周囲よりちょっと高いので、ここに主郭があったかもしれませんが。
※訂正:城跡はここから西へ約300mの所でした(;´∀`)

▲城址碑
この空き地に城址碑があります。狭いので、すぐにわかりました。この城址には戸部政直について彫られていますが・・・全部漢字なので読む気が起きずw最初の一行目には、今川義元の家臣と書かれていました。

▲戸部新左衛門政直の碑
さらに、空き地の中心部にはこんな岩だらけの場所もあります。手前には「ここはお詣りする所です」と書かれています。写っていませんが、ちゃんとお賽銭箱もありましたw
◆歴史◆
戸部政直の城でした。
戸部政直は織田信秀の家臣でした。1549年に今川軍の太原雪斎が安祥城を攻め、織田信広を捕虜にしました。この時に織田信広の助命のため今川義元と交渉をしたのが、戸部政直でした。交渉の結果、織田家が人質としていた松平竹千代と交換されました。後の徳川家康です。
織田信秀が没した後、戸部政直は今川義元に寝返りました。尾張東部と三河は織田家と今川家が度々衝突している激戦地でした。「うつけ」の織田信長が家督を継ぐと、山口教継などが今川方に寝返りました。
織田信長はかつての家臣だった戸部・山口両氏を攻めました。寺部城主・山口重俊が戸部城を攻めて返り討ちに遭ったのもこの頃です。
1557年、廃城となりました。
尾張東部の奪還を目指す織田信長は、戸部政直を排除する謀略を仕掛けました。戸部政直の筆跡を真似した書状を駿府に届けさせたのです。戸部政直は元々は織田家臣でした。織田信長に内通する旨が書かれた書状を見た今川義元は、戸部政直を呼びました。しかし、申し開きを聞くまでもなく、三河国吉田(今の豊橋)で成敗してしまいました。これにより、戸部城は廃城となりました。
追記
コメント頂いた通り、ここにあった石碑が2016年4月中に富部神社へ移転します。自分で見て来た訳ではないので、確証はなかったのですが・・・見に行こうかな?とは思いましたけどw名古屋市南区様のサイトに石碑の事が載っていたので、移転について質問してみました。すると丁寧な返信が届き、所有者の方が石碑を2016年4月中に富部神社へ移すとのことでした。これから訪ねる方は、是非とも富部神社へも足をお運び下さい^^
所在地:愛知県名古屋市南区戸部町2丁目
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コメント
無題
戸部新左衛門の墓や史跡を呼続の富部神社に移転させるとのことで、すべての石碑が撤去され、名古屋市の保存樹にも指定されていた楠の大木も伐採されていました。
恐れ多いというか言葉にならない何とも無惨な姿になってしまっております。
近いうちに更地にされるとのことです。
2016/04/23 19:50 by 通りすがり URL 編集
Re:無題
元々の城跡はここから300m程西だったそうで・・・
石碑は2度目の移転ということになりそうですね。
地図まで載せている身としては、こうした変化は大事な情報となります。
ここ見て行ったら何も無かった、というのが一番ツライですからね。
貴重な情報ありがとうございます!
2016/04/23 20:37 by なぽ URL 編集