2015/07/05
鷲津砦/名古屋市緑区
鷲津砦は公園になっています。訪問日は2014年8月4日です。
▲案内図 拡大表示
鷲津砦は丸根砦とともに大高城・鳴海城の間に築かれました。この辺りは地形が起伏に富んでおり、大高城の北の高い所を押えていました。・・・と等高線を見ているとそんな感じがしますよね。

▲公園の様子
鷲津砦の跡地は住宅街に隣接しています。砦だった所もかなり開発されているようですが、先端部は辛うじて残っているようです。昔はココまで登って来るのも苦労したのでしょうが・・・この公園は道端にあります。

▲奥の方に城址碑が見えます
しかし、城址碑まで道端にあっては風情が無いと思ったのでしょうか・・・公園からちょいと雑木林の中の細道を歩かされます。私には地形の起伏とか、ここが元々何だとかは分からず。

▲城址碑
木々の間を潜り抜けた先にちょっとした広場があり、そこに城址碑がありました!予習しない奴は来るんじゃねぇ!とでも言いたげですねw
◆歴史◆
せっかくなので、桶狭間の戦いが起こるまでの経緯を辿ってみました。意外に知らない事が色々出てきて、楽しく調べました♪
1552年、織田信秀の没後、鳴海城の山口教継が今川家に寝返りました。
山口教継は織田信秀の重臣で、三河との国境を任せられていました。しかし、大高城、沓掛城を奪い、これらの城に今川義元の家臣を呼び入れました。これにより尾張中心部と知多半島の連絡が絶たれました。織田信長はこれらの城を取り戻そうと攻めました。
1555年、蟹江城が今川軍に奪われました。
尾張南西部の服部友貞が、今川義元と連携して蟹江城を奪いました。これにより知多半島から尾張南部の海沿いが、今川方の勢力圏となりました。津島港の海運による経済力を背景に勢力を拡大してきた織田信長には打撃となりました。織田信長は知多半島の水野氏を支援し、制海権の奪還を開始しました。
1559年、織田信長が砦群を築きました。
鳴海城を囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築きました。また、鳴海城と大高城の間に鷲津砦、丸根砦を築き、両城の連絡を遮断しました。謀略により今川義元に山口教継を殺させることにも成功しました。
1560年、桶狭間の戦いの前哨戦の舞台となりました。
今川軍は鳴海城に岡部元信、大高城に朝比奈輝勝を守将に置いていました。鳴海城は猛将の岡部元信がしっかり守っていましたが・・・大高城の備えは十分でなかったようで、鵜殿長照、松平元康が兵糧を運び込んでいます。そして、そのまま守将を交代しています。
今川軍の先鋒・朝比奈泰朝が鷲津砦、松平元康が丸根砦の攻撃を開始。この知らせを受けた織田信長は、単騎で駆け出し熱田神宮で戦勝祈願をしました。織田軍はまだ準備が整っておらず、バラバラと追い掛けたそうです。織田信長は鳴海城と大高城の周りに築いた砦に今川軍が食いつくのを待ってたようですね!
丸根砦は織田信長の叔父・織田秀敏と飯尾定宗・尚清父子が守っていました。飯尾定宗は織田秀敏の子または甥とみられますが、詳しい関係はわかっていません。『信長公記』によると、丸根砦・鷲津砦とも、防衛線というよりは囮だったようです。そのため、今川軍を引き付けて時間稼ぎをすれば良かったような事が書かれていました。老練な織田秀敏は信長の指示通り撤退したのですが・・・まだ若かった飯尾定宗・尚清父子は撤退に失敗し、討ち取られてしまいました。
織田軍は鷲津砦、丸根砦の救援は間に合わなかったのですが・・・急報を受けて馬を飛ばして来た織田信長は、まず善照寺砦に入りました。そして善照寺砦で軍勢を整えた後、突然降り出した大雨の中を出陣しました。そして、織田軍は桶狭間で休憩していた今川軍の本陣に奇襲を掛けました。
・・・有名な話だし、もう飽きましたよね?w
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町鷲津(鷲津砦公園)
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