2015/06/27
大高城/名古屋市緑区
大高城は城址公園となっています。訪問日は2014年8月4日です。
▲案内図 拡大表示
大高城は三河との国境近くの丘を利用して築かれています。周辺は住宅街となっていますが、城跡は史跡に指定され残されています。緑色で着色されている通り、とても木々が豊かに生い茂っていますw

▲城跡への案内(北側)
図の一番上の真ん中の道の入口がココです。写真の左へ進むと城跡に行けます。ここは記憶では道が狭かったような気がするのですが・・・写真だと、車と比べてそんなに狭いようには見えませんね。

▲北側の入口
案内の所からズンズン進むと、木々の茂った山に辿り着きます。ここが公園の入口のようで、バイクはこの脇に停めさせてもらいました。一番上の図はここの案内板に描かれています。

▲段差
道を素直に登って行くと、こんなかんじの所に出ます。この段差の上に祠があったので、そこが主郭でしょうか。堀跡が残ってるようなのですが、見つけられませんでした。段差の手前が気持ち窪んでいるようにも見えますが、これでしょうか?
かつては城の周りを堀や土塁が囲んでいたそうです。しかし、崩れると危険だからということで取り払われたのだとか。それでもコンクリートのヘンテコリンな建物が無いだけ、雰囲気はあります。

▲主郭にある神社
鳥居もあるので、神社らしく一緒に撮ってみました。祠が小さいので、私的に祀られたものなんでしょうね。私的には「ここが主郭だよ」という目印になっていますw
◆歴史◆
永正年間(1504~21年の間)、花井備中守により築かれたと伝わります。
斯波義達が尾張守護を継ぐと、遠江を巡る争いが激化しました。1510年、1513年に斯波軍は大敗し、1515年に大敗した時には斯波義達が捕らえられました。遠江遠征に反対する織田氏と対立が生じ、斯波義達の求心力は一気に低下しました。遠江を今川氏親に奪われ、三河の松平信忠が頼りないこの時期に大高城が築かれたんですね。
天文年間(1532~55年の間)、水野忠氏が城主となりました。
水野氏は知多半島に勢力があり、各地に分家があったそうです。水野忠氏についての詳細は不明ですが、緒川水野氏と考えられています。松平氏との関係が深く、何度も婚姻関係があったそうです。ただし、織田信秀の時代には織田方となり、知多半島を統一しました。
1548年、今川義元の家臣・野々山政兼に攻められました。
野々山政兼は島津氏の出身で、三河に来てから野々山姓を名乗るようになりました。今川義元が今橋城(=豊橋の吉田城)を攻めた際に功があり、細谷郷を与えられています。今川義元の命令で大高城を攻めましたが、この時援軍に来る筈の松平広忠が来ませんでした。このため戦いに敗れて討死し、野々山一族は滅んだそうです。
1553年頃、山口教継の調略により今川義元の城となりました。
山口教継は織田信秀の重臣で、今川義元との戦いでも活躍した武将でした。大高城のすぐ北にある鳴海城の城主を務め、三河との国境を任されていました。しかし、織田信秀が没すると今川義元に寝返り、大高城・沓掛城を奪いました。これらの城に今川家臣を引き入れ、1559年からは朝比奈輝勝が守将となっています。この頃に山口教継は駿河に呼ばれ、子の山口教吉と共に切腹させられました。
1560年頃、廃城となりました。
今川義元が尾張に侵攻した桶狭間の戦いで主戦場となりました。織田信長は大高城と鳴海城の間に砦を2つ築き、両城の連絡を絶ちました。織田軍の包囲を破った鵜殿長照、次いで松平元康が大高城を守りました。今川義元が討ち取られると松平元康は岡崎城へ引き揚げました。松平元康と織田信長は翌年まで争ったので、すぐに廃城にはならなかったでしょうが・・・両者が清洲で同盟を結ぶと、役割を終えて廃城となりました。
1616年、尾張藩家老・志水忠宗が館を築きました。
志水氏は、1870年(明治3年)まで大高城跡に居住しました。
1938年、国の史跡に指定されました。
昭和13年に丸根砦・鷲津砦とともに国の史跡に指定されました。
所在地:愛知県名古屋市緑区大高町城山(城址公園)
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