2015/06/21
比良城/名古屋市西区
平良城は光通寺となっています。訪問日は2014年8月3日です。
▲光通寺
平良城のあった光通寺も、住宅街の真ん中にあります。道端に石塔が高く積まれた所があり、辛うじてそこがお寺だとわかりました。駐車場もありますが、当日は法事があったためか満車でした。赤く囲んでいる所に説明板があります。

▲城址碑
城址碑もあった筈・・・そう思ってキョロキョロしたのですが、中々見つからず。法事でお寺に来る方がゾロゾロ居て、視線がちょっちチクチクしました。しかし、そんな事で怯んで諦めたらただの痛い思い出にしかならず。そう思って視線を今まで見てなかった方へ投げてみたら、ありました!墓地の一番奥にそれっぽい石柱がw
◆歴史◆
天文年間(1532~55年の間)はじめ頃、佐々成宗が築きました。
佐々成宗は北東約2kmの所にある井関城から移って来ました。その佐々成宗ですが、出自がはっきりしていません。別名・余語盛政とも名乗っており、近江から移って来た佐々木一族という説があります。井関城は長男・佐々政次が継いでいます。1536年に比良城で佐々成政が生まれたので、それまでには比良城があったことになります。
1542年、小豆坂の戦で佐々一族が活躍しました。
織田信秀が三河を攻めた小豆坂の戦で、佐々政次・孫介兄弟が活躍しました。小豆坂七本槍に佐々成政の兄が2人とも選ばれています。
1556年、佐々成政が家督を継ぎました。
次兄・佐々孫介が稲生の戦で討死したため、三男の佐々成政が家督を継ぎました。この戦いは織田信長と弟・信勝(=信行)の戦いで、佐々氏は信長方として戦っています。
1560年、兄の佐々政次が討死しました。
桶狭間の戦で、佐々政次が討死しました。井関城はこのため廃城になったとされますが・・・佐々政次の子・清蔵が跡を継いだと思われます。清蔵は織田信忠とともに本能寺の変で討死しました。
1575年、佐々成政が越前へ移りました。
府中三人衆として前田利家、不破光治とともに、三人で府中10万石を与えられました。越前一国の主は柴田勝家ですがその配下ではなく、織田軍の遊軍として位置づけられました。柴田軍とは別行動をとることが多く、石山本願寺や荒木村重討伐などにも参戦しています。
佐々成政が越前へ移ったことにより廃城になったと考えられていますが・・・次兄の子・佐々行政が、詳細は不明ながら成政とは行動を共にしていないようです。もしかしたら、比良に残ったのかもしれません。
所在地:愛知県名古屋市西区比良3丁目(光通寺)
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