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真里谷城/千葉県木更津市

真里谷城は、上総武田氏の本拠地でした。

訪問日は2022年1月22日です。



【位置】真里谷城

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城跡は現在、キャンプ場となっています。

1の入口はバリケードが置かれ、車は前に置くしかありません。

そこから舗装道を進むと、道沿いに四郭、三郭、二郭と続きます。

二郭前にゲートがあり、その奥が主要部です。

管理棟のすぐ奥に城山神社があり、分厚く高い土塁に囲まれています。

すぐ隣にさらに高い土塁に囲まれた主郭があります。

全然開いてないキャンプ場ですが、主要部はよく手入れされています。

そうでない場所は、まぁそれなりですクローバー



【1】真里谷城

1 入口



駐車場前はバリケードで封鎖されています。

少しだけ奥まって置いてるのは、察して下さってるのでしょうか。



【2】真里谷城

2 案内



バリケードの両サイドに、このような案内があります。



【3】真里谷城

3 四の郭標柱



案内に従い道を進むと、左脇に四の郭の標柱が(*´∀`*)



【4】真里谷城

4 標柱の所から見上げた光景



見上げるとこんな感じで、ここを真っすぐ上がる訳ではありません。

この上にある四の郭は、後ほどご紹介します。



【5】真里谷城

5 三の郭の標柱



さらに進むと、今度は右脇に三の郭の標柱があります。

三の郭へはここから入れます。



【6】真里谷城

6 土塁



道端は道を通した時に削られたっぽいですが・・・

すぐに土塁が現れます。

曲輪としては、だいたい残っていそうです。



【7】真里谷城

7 だいたいこんな感じ



ですが、内部は手付かずの大自然そのもの。

2019年の台風のせいか、私でもなかなか奥へ進めない状態です。

色んな所に載ってる図では、奥に堀切がある、らしいです。

さらに、往時の大手道はここに上がって来る、らしいです。

・・・こんな状態なので、確かめることは出来ませんでした。

2015年に撮影した写真を見ると、かなり歩きやすそうでした。



【8】真里谷城

8 二の郭入口



続いて二の郭です。

二の郭の入口には案内はありません。

四の郭、三の郭の標柱は、だいぶ傷んだ感じでした。

もしかしたら二の郭の標柱もかつてはあったのかもしれません。



【9】真里谷城

9 ネットが張られています



道に面した高台の上は、ネットが張られて入れず。



【10】真里谷城

10 堀切



ネット沿いに奥へ進むと、台地を分断する長い堀切があります。

二の郭は、ネットの無い側です。



【11】真里谷城

11 二郭



上がったばかりの場所は、まだ歩きやすそうです。

奥の方がちょっと、、、なのが見えちゃってますがあせる



【12】真里谷城

12 土塁



それでも頑張って行ける所まで進んでみました。

倒木の海を泳ぎ、何とか土塁を見つけることが出来ました。



【13】真里谷城

13 だいたいこんな感じ



見慣れた光景ですクローバー

ここでちょっとだけショックな出来事が。

カメラの液晶面に、小さなマダニ君が付いてました。

12月に宮崎の山中でも見掛けましたが・・・

真冬であっても、肌が露出しない服装を心掛けましょう。



【14】真里谷城

14 キャンプ場入口



いよいよ、城の主要部です。

私は2回訪ねて、2回ともこの門は閉まってました。

なので、とっくに閉鎖されたのかと思ってましたが・・・

元々開いてるのが年に1か月程度だと今回知りましたあせる

私は車両ではないので入りました。
「立入禁止」なら入りませんが。



【15】真里谷城

15 図入り説明板 説明板を表示図だけ拡大表示



ゲートから間もなく、管理棟があります。
その前に、立派な説明板がありますラブラブ



【16】真里谷城

16 城山神社



管理棟のすぐ隣には、高い土塁に囲まれた城山神社があります。



【17】真里谷城

17 土塁



土塁に囲まれた様子を何とか撮ろうとしましたが・・・

訪ねた時間が悪かったのか、殆どの写真は逆光でほぼ何も見えず。

私の腕ではこれが精いっぱいでしたあせる



【18】真里谷城

18 北側の虎口



城山神社を出て奥へ進むと、右側に下りる道があります。

何となくそれっぽい雰囲気を感じ、城キチの直感で撮った一枚です。

後で図を見て、ここも虎口であったと判明ヾ(*´∀`*)ノ

ここを下ると、二の郭前の長い堀切に出ます。



【19】真里谷城

19 主郭虎口



回れ右をすると、あからさまな虎口があります。

普通はこっちが先に目に飛び込むものですがあせる

現・自由広場こと、主郭です。



【20】真里谷城

20 主郭虎口



入口から入ると、道が左右に分かれます。

こんな虎口、どこかで見たような・・・

都於郡城(宮崎)の奥ノ城という曲輪の虎口も、同じ形でした!

遠過ぎるので、両者に関連は無いと思われますが。



【21】真里谷城

21 虎口脇にある説明板 拡大表示



虎口の上には、かなり年季の入った説明板が鎮座しています。



【22】真里谷城

22 主郭内部



公園っぽいので、どこまで旧状を留めているのかは?です。

まぁでも虎口が崩されていないので、期待してもよさげです^^



【23】真里谷城

23 主郭北西の虎口



外周の土塁を一周堪能ラブラブ
すると、北西隅に小さな虎口がありました。



【24】真里谷城

24 外に伸びる通路



進んでみると、外に出る細道があります。

奥へ進んでないので、このまま出られるのかは?です。

外の切岸は高さがあるので、迎撃用の犬走なのかもしれません。



【25】真里谷城

25 南端土塁上



主郭を囲む土塁の南端は、展望台となっています。

土塁?と思うくらいに分厚いです。

土を盛ったというより、主郭を掘ったというのが正しいのかも。



【26】真里谷城

26 南西側から見上げたところ



主郭を出て奥へ進むと、南側の尾根脇を通ります。

上がる道が私を誘惑しますが、誘われると断りたくなります。

つくづく天邪鬼です。



【27】真里谷城

27 南にある広場


尾根の先端に、こんな広場があります。

城の物とは思えない広さ・・・

どの図にも無いので、これは近代のやっちまった系でしょう。



【28】真里谷城

28 主郭南側の尾根



せっかく先端に来たので、段々になった尾根を堪能します。



【29】真里谷城

29 四の郭に続く細尾根



最後に、帰りがけに四の郭にも立ち寄りました。

四の郭へは、三の郭の真正面から反対側に入ります。

二の郭の真正面からも細尾根っぽいのが見えますが・・・

そのまま進むと、ぶっつり切れますw

今度こそ!の三の郭前からが正解です。

途中とっても矢竹?なのか笹?なのかが密生していますクローバー



【30】真里谷城

30 四の郭内部



そんな試練を乗り越えた先に、三角形っぽい平坦地があります。

ここが四の郭です。

頑張って辿り着いた所ですが、写真はいつもの感じですクローバークローバークローバー

この写真で「真里谷城!」と答えられる人、何人いるでしょうか?





◆歴史◆



1456年、武田信長により築かれました



武田信長は、甲斐国守護の武田家の人物です。

1416年、武田家は上杉禅秀に味方したため、一時没落しました。

紆余曲折の末に将軍・足利義教に仕え、相模に領地を得ました。

しかし、将軍暗殺後に再び領地を失い、古河公方に仕えました。

古河公方は上杉家が守護を務める上総を、武田信長に攻めさせます。

そして勝利すると、武田信長を上総国守護代としました。

この時に支配拠点として真里谷城と庁南城を築きました。

地図で見ると、房総半島のど真ん中にあります。



真里谷姓を名乗るようになります。



1477年頃、武田信長と長男・武田信高がほぼ同時期に世を去ります。

真里谷城は武田信興、庁南城は武田道信が継ぎました。

喧嘩別れではありませんが、武田信興は真里谷姓を名乗るようになります。

両家は協力関係にあり、原氏や酒井氏らと争いました。

1517年に小弓公方を擁立し、上総国で絶対的な地位を築き上げます。



1537年、家督争いが起こります。



カリスマ当主・真里谷恕鑑が1534年に世を去りました。

後継者は庶長子の真里谷信隆と、生前に決められていました。

しかし、正室の子・真里谷信応を推す勢力もあり、家督争いが勃発。

真里谷信隆は後北条家、真里谷信応は小弓公方を後ろ盾としました。

両者の代理戦争の様相を呈しますが、真里谷信応が勝利。

敗れた真里谷信隆は、後北条家を頼り武蔵国金沢へ逃れました。



1538年、第一次国府台合戦で敗れます



後北条家と小弓公方は、ついに直接境を接するようになります。

そして1538年、国府台城を巡り直接対決に至りました。

小弓公方は真里谷氏や里見氏、土岐氏などを従えていました。

しかし、その小弓公方が先陣に立って突撃し、矢に当たって討死。

総大将を失った上総・安房連合軍が敗れました。

里見義堯は従ったふりをして戦力を温存し撤退しましたが・・・

真里谷信応はそれなりにダメージがあったようです。

後北条家の支援を得た真里谷信隆に押され、敗れました。

真里谷信隆は海沿いにあった椎津城を本拠として復権。

真里谷信応は、里見義堯を頼り安房に落ち延びました。

真里谷城はその後も使われたので、城代が置かれたと思われます。



1552年頃、真里谷信政が滅びます。



1540年代から、真里谷信隆の家中で内紛が続きます。

真里谷信隆は各地を奪われながらも、真里谷家を守りました。

しかし、1551年に没すると、里見義堯が本格的に侵攻します。

そして1552年、椎津城に籠った真里谷信政を滅ぼしました。



真里谷信高が真里谷家当主となります



里見義堯は、匿っていた真里谷信応・真里谷信高父子を当主に据えます。

真里谷信応は甥の真里谷信政を助け註されたとする説もありますが・・・

1564年の第二次国府台合戦に、里見方として出陣した記録もあります。

一応、生きていたとする説を採用します。

いくら傀儡でも、その後は割と自己判断で行動してますので。

この戦で里見軍が大敗すると、真里谷信高は後北条方となりました。

その後、里見軍は三船山合戦で後北条軍本隊を撃破。

すると、後北条家になびいていた諸家が再び里見家に従います。

真里谷信高も、この時に里見家に帰参したとされます。



1590年、廃城となりました



豊臣秀吉が、後北条家の本拠・小田原城を攻めました。

後北条家は各地の配下に、小田原城に兵を出すよう命じます。

この時、真里谷信高はどちらにも味方せず、傍観姿勢をとりました。

小田原城陥落後、豊臣秀吉は徳川家康に命じて上総へ侵攻。

後北条家に味方したりどちらにも味方せず傍観した勢力を掃討しました。

真里谷城も徳川軍に攻められ、真里谷信高は降伏。

真里谷信高は那須家預かりの身となり、真里谷城は廃城となりました。





所在地:千葉県木更津市真里谷 GPSログダウンロードページ



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プロフィール

なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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