2015/06/20
大秋城/名古屋市中村区
大秋城は大秋八幡神社となっています。訪問日は2014年8月3日です。
▲大秋八幡神社
この神社の前の道はとても細いです。地図で見ると、すぐ南の一方通行の道の半分の細さで描かれています。・・・地図は実際の道幅を反映したものではありませんがwバイクを路駐するのも憚られる位に細いうえ、駐車場もありません。

▲城址碑
境内には立派な城址碑がありますヽ(´∀`)ノ
この碑には以下の文章が彫られています。
尾張徇行記載日大秋村之条
織田真記日
其後謀令所属荒子城絶熱田与清須之路
米野大秋二城絶清洲郡那古野之路
而略奪公充厨田篠木三郷
今按古城志不載大秋城墟
云云
意味は・・・
『尾張徇行記』の記載に曰く大秋村のくだり
『織田真記』には
謀により荒子城を寝返らせ、熱田と清須の路を絶つ
米野城と大秋城の2城は清洲郡と那古野城の路を絶つ
そして篠木三郷で略奪を働いた
今調べても『古城志』には大秋城跡が載っていない
・・・でしょうか?国語は得意じゃなかったので、雰囲気で何となくです。ちゃんと意味が分かる方いらっしゃったらフォローお願いします



◆歴史◆
那古野城主・今川氏豊の旧臣である大秋十郎左衛門の城でした。
築城年代はわかっていません。那古野城主・今川氏豊の旧臣だった大秋十郎左衛門の居城でした。今川氏豊が没落した後、大秋十郎左衛門は林秀貞の与力となりました。
1556年、織田信長と弟・信勝(=信行)が争った稲生の戦いがありました。この戦いでは隣の米野城主・中川弥兵衛とともに林秀貞に従いました。以後、大秋十郎左衛門が史料に登場しなくなるため、この時に廃城になったと見られます。
所在地:愛知県名古屋市中村区大秋町2丁目(大秋八幡神社)
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コメント
名古屋市中村区大秋城の碑文に関して
大秋城の碑文ですが、以下は歴史背景を付け加えながら自分なりの解釈です。
文政5年(1822年)に樋口好古によって書かれた尾張徇行記録の中の大秋村の欄は、織田真記に書かれていた事柄から転記している。
織田信長と弟の信勝(一般的には信行)との間で起こった家督相続争いに際し、清洲城を抑えた信長に対して、那古屋城を本拠とし、弟の信勝を支持する林秀貞、林通具兄弟は荒子城の前田利昌に対しては謀を用いて行動を封じ、さらには米野城の中川弥兵衛と大秋城の大秋十郎左衛門によって清須城と那古野城の間を遮断したうえで、信長の蔵入地である篠木三郷を略奪した。
これに対し、信長は佐久間盛重に命じて小田井川(現在の庄内川)沿いに名塚砦を築かせて信勝勢と対峙した結果、稲生の戦いが始まり、信長の勝利に終わる。
しかし、今(尾張徇行記を書いている文政年間)古城誌を見直しても、大秋城に関しては載っていない。
多分これで大筋は合っているかと思います。
また拝見させていただきますので、今後ともよろしくお願いします。
※自分も愛知県の城のHPを作っており、大秋城へは2015年9月に訪問しました。上記文章は自分のHPよりのコピペです。
2016/01/19 19:36 by だいちゃん URL 編集
Re:名古屋市中村区大秋城の碑文に関して
詳しい解説ありがとうございます。
ちゃんと読んで下さる方がいると、とても嬉しい気持ちになります。
さて、こういう碑文や古書を読むと、城キチ・歴オタって奥が深いと感じます。
インターネットが無い時代から、あれやこれやと史料を読み漁ってたのですから。
しかも、こんなマイナーな城跡で。
ある出来事に対して、なぜなんだろう?と思う気持ちが伝わってきます。
正解は当時の人にしかわかりません。
お互い好きなように妄想を膨らませて楽しみましょうね!
2016/01/19 21:39 by なぽ URL 編集