2015/06/20
稲葉地城/名古屋市中村区
稲葉地城は庄内川東岸の微高地にありました。訪問日は2014年8月2日です。
▲神明社
城跡には神明社があります。ここも住宅街の中にありながら、緑がとても豊かです。神社って、これだから探しやすいんですよね!・・・ただ、辿り着いた神社が目指していた神社とは限りませんが


▲城址碑
この神社の参道入口に立派な城址碑があります。遺構があれば尚良いのですが、名古屋周辺ならコレだけでも満腹です♪
◆歴史◆
織田信光により築かれました。
織田信光は織田信秀の弟で、織田信長の叔父に当たります。守山城の城主で、1535年に攻めて来た松平清康が陣中で斬られる森山崩れがありました。とても武勇に優れ、1542年に三河を攻めた小豆坂の戦いでは七本槍に数えられています。稲葉地城は那古野城の西側にありますが、守山城は東側にあります。東西から織田信長の那古野城を間に挟むのは不自然ですよね?信光が那古野城の城主になってからの築城だと思います。そうなると、築城時期は1555年ということになります。
1556年、織田信光が殺害されました。
1月7日に近臣の坂井孫八郎により殺害されました。なぜ坂井孫八郎が主君である織田信光を殺害したのかは謎ですが・・・坂井孫八郎は織田信長の命令を受けた佐々孫介により成敗されています。那古野城は林秀貞が留守居役となりました。
織田信光の本拠・守山城は信光の弟・信次に与えられました。織田信光の嫡男・織田信成は父の地位継承は認められず、一親族扱いとなっています。稲葉地城は織田信光の次男・織田信昌(玄蕃允)が城主となりました。
1560年、城主の織田宗政が討死しました。
桶狭間の戦いでは、織田信昌・宗政(與三郎)父子は鷲津砦を守っていました。鷲津砦は松平元康配下の朝比奈勢に攻められて陥落しました。この時、織田宗政が退却に失敗し、朝比奈勢により討ち取られました。
1574年、織田信昌が討死しました。
長島一向一揆との戦い(第三次侵攻)で、討死しました。この戦いでは、10月13日に織田家臣が数多く討死しています。これは長島城の一揆勢が捨て身の反撃によるものですが。ただ、織田信昌は8月18日に討死しています。この頃はまだ長島城を包囲している段階で、小競り合いの中で討たれたと思われます。
1582年、織田小藤次が討死しました。
本能寺の変で城主・織田小藤次(織田信昌の4男)が討死し、廃城となりました。小藤次が討死したのは二条御所なので、織田信忠に従っていたとみられます。主を失った稲葉地城は、この頃廃城になったと思われます。
所在地:愛知県名古屋市中村区城屋敷4丁目(凌雲寺、神明社)
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コメント
無題
地元の神明社で初詣にも行っていて、石碑も目にしていたはずなのに… 気がないと気付かないものですね。
丁度本日 実家に行ったので バスに乗る前に寄ってみました。
すぐ近くにある信長ゆかりの凌雲寺なんて時々散歩に行ってました。
本当に驚くばかりです。
2020/07/16 14:28 by shirobe URL 編集
Re:無題
城跡にも色々あって、言われなければ気付かない所も多々あります。気付く前後で見る目が変わるので、別世界に来たような新鮮な気持ちになりますよね。
2020/07/16 23:55 by なぽ URL 編集