2015/06/07
前田城/名古屋市中川区
前田城は速念寺となっています。訪問日2014年8月2日です。
▲速念寺
前田城の跡には速念寺があります。訪問した時は工事中で入れず。前田利家の兜を模したという屋根見たかったのに・・・というのはさっき思った事です。そんな面白い屋根があるなんて、行った時には知らなかったのでw

▲城址碑
でも!
山門前にあるこの城址碑だけはバッチリ撮りました。・・・これしか知らなかったので

◆歴史◆
前田氏の本拠でした。
前田利家をはじめとする前田氏発祥の地と言われています。しかし、築城年代がいつなのかがわかっていません。前田氏は菅原道真の子孫を称していますが、前田利家の父親より前の世代は不明です。その前田利家でさえ、生誕地が前田城なのか、荒子城なのか分かってません。
ここからは推測の域を出ないのですが・・・前田氏歴代の本拠地は下之一色城ではないかと思うのです。名古屋の城跡はかなりの密度で固まっているので、近在のお城の歴史も一緒に調べました。中川区の城跡のブログを一週間以上かけてようやく書き始められたのはそのせいです。その中で一番引っ掛かったのが、前田家の歴史です。
前田利家と言えば加賀藩の藩祖で有名です。加賀・能登・越中の三国120万石は、2位の薩摩藩とは40万石の差があります。それほどの大族でありながら、その歴史はサッパリわかっていません。
前田利家の父・前田利春は1544年に前田城から荒子城主に移ったとされます。しかし、ココで書いてる「前田城」が、前田利春の居た「前田城」なのか少し怪しいのです。
『尾張誌』では、歴代の前田与十郎(本家の当主)の居城が「下之一色城」なのです。そして、前田城のすぐ近所には、織田信長家臣・福留将監の助光城がありました。速念寺がある前田城跡と助光城との距離が、あまりにも近過ぎるのです。当時両者とも大身ではなかったと思われるので、城というより居館だったのでしょうけど。
そこで推測を巡らせた結果は・・・
前田氏歴代の本拠は下之一色城(当時「前田一色」と呼ばれていたらしいです)、かも。助光城の福留氏が何らかの理由で去った後、前田氏がその領地を得た、かも。その拠点として前田城を築いた、かも。何となくの辻褄合わせです

ここで疑問に思うことがあります。
それは、速念寺がココにある理由です。
速念寺は前田利家の父・利春の末弟・利則が復興したとされます。その時期は恐らく前田本家が滅びた後だと思います。前田本家の菩提を弔うお寺を、なぜ空いた筈の本拠地に建立しなかったのか、です。もしかしたら推測は全部ハズレで、やっぱりココが前田氏歴代の本拠だったかもしれません。
ただし、下之一色城跡は河川改修により跡形も無く消滅しています。前田家歴代のお墓も、以前は下之一色にあったものを速念寺に移したんだそうです。・・・ということはやっぱり、本来の前田氏歴代の居城は下之一色城だったかもしれないですね!
もう1つ疑問に思うことは、寺伝です。なぜか当地をやたらと前田氏発祥の地としたり、前田利家生誕地だとしたりするのです。本当にそうかもしれませんが、そうじゃないかもしれません。嘘をついているとかではなく、史料の混乱があったりして。おそらくは寺を復興した前田利則こと意休法師が書き残したと思われます。
「前田本家の人が菩提を弔おうとココにお寺を建てたから」とか・・・「下之一色城とは違う名前で書かれているから」とか・・・史料見てないのですが、当人の認識とは関係無く「下之一色城とは別の城」と思いますよね。
1584年、廃城となりました。
小牧・長久手の戦では、前田本家の領内でも大きな戦いがありました。それが「蟹江の戦い」で、この戦いにより、前田本家はほぼ壊滅しました。当主・前田利定をはじめ、利定の父・種利、利定の弟・利俊が討死したり、処刑されました。唯一、利定の嫡男・長種だけが生き残り、加賀の前田利家のもとに落ち延びました。この時に前田長種が守っていたのが前田城とも下之一色城とも言われています。
・・・どっちかなんでしょうけど、ググったら両方出てくるんです

上の推測通りだとすると、前田城=下之一色城となり、1つにまとまるのですが・・・そうすると、そもそもココにはお城が無かったことになります。誰か本当の事教えて下さいwww
所在地:愛知県名古屋市中川区前田西町1丁目(速念寺)
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