2015/05/31
日置城/名古屋市中区
日置城の跡地は松原緑地となっており、大きな樟が残されています。訪問日は2014年8月3日です。
▲松原緑地
住宅街の一角にフェンスで囲まれた場所があります。このフェンスに松原緑地についての説明板があります。その説明文によると、中の大クスノキは弘法大師が植えたのだとか。織田信長は出陣の際、このクスノキに戦勝祈願をしていたそうです。

▲大樟の根元
この大クスノキは第二次大戦中に、空襲により焼けてしまいました。しかし、焼け跡から芽を出し今に至るそうです。かなり太い幹がぽっかり空いているのは、その名残なんですね。もしお話し出来るなら、色々ききたい事が(^-^)
◆歴史◆
築城年、城主ともに不明です。
平安時代には日置荘の拠点があったそうです。今は住宅街になっており、面影は全くありません。城主は織田寛定と織田忠寛の2説があるそうです。家系も時代も合わないのですが・・・・2人とも城主だった時期がある、てなんて説もアリだと思うのですがwせっかくなので、2人について調べてみました。
織田寛定
生年不詳 - 1495年没尾張守護代で清洲城主・織田敏定の嫡男です。1494年、美濃守護代・斎藤氏の内紛である船田合戦に介入しました。その一方の当事者である石丸利光の娘を正室に迎えています。この戦の最中に父・織田敏定が陣中で没し、家督を継ぎました。しかし、その年の9月に美濃へ出陣した際に討死しています。日置城に入ったとすれば、1495年に家督を継ぐまでの間と思われます。
織田忠寛
生年不詳 - 1577年1月没楽田城主・織田寛貞の子。清洲三奉行・織田藤左衛門家の庶流です。1562年に父・織田寛貞が犬山城の織田信清とともに織田信長と敵対。戦いに敗れた織田寛貞のその後は不明です。子の織田忠寛は織田信長に仕えました。楽田城は坂井政尚が城主となったため、日置城に入ったとすればこの頃と思われます。織田信長のもとでは対武田外交を担い、何度か甲斐へ赴いています。後に織田信長の子・茶筅丸(織田信雄)の後見を務め、伊勢の安濃津城主となりました。しかし、北畠具教一族を滅ぼす際に消極的な言動が目立ち、1577年に誅殺されました。
所在地:愛知県名古屋市中区松原1丁目(松原緑地)
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント