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日置城/名古屋市中区

日置城の跡地は松原緑地となっており、大きな樟が残されています。訪問日は2014年8月3日です。

日置城/①松原緑地
▲松原緑地

住宅街の一角にフェンスで囲まれた場所があります。このフェンスに松原緑地についての説明板があります。その説明文によると、中の大クスノキは弘法大師が植えたのだとか。織田信長は出陣の際、このクスノキに戦勝祈願をしていたそうです。

日置城/②大樟の根元
▲大樟の根元

この大クスノキは第二次大戦中に、空襲により焼けてしまいました。しかし、焼け跡から芽を出し今に至るそうです。かなり太い幹がぽっかり空いているのは、その名残なんですね。もしお話し出来るなら、色々ききたい事が(^-^)


◆歴史◆

築城年、城主ともに不明です。

平安時代には日置荘の拠点があったそうです。今は住宅街になっており、面影は全くありません。城主は織田寛定と織田忠寛の2説があるそうです。家系も時代も合わないのですが・・・・2人とも城主だった時期がある、てなんて説もアリだと思うのですがwせっかくなので、2人について調べてみました。

織田寛定

生年不詳 - 1495年没尾張守護代で清洲城主・織田敏定の嫡男です。1494年、美濃守護代・斎藤氏の内紛である船田合戦に介入しました。その一方の当事者である石丸利光の娘を正室に迎えています。この戦の最中に父・織田敏定が陣中で没し、家督を継ぎました。しかし、その年の9月に美濃へ出陣した際に討死しています。日置城に入ったとすれば、1495年に家督を継ぐまでの間と思われます。

織田忠寛

生年不詳 - 1577年1月没楽田城主・織田寛貞の子。清洲三奉行・織田藤左衛門家の庶流です。1562年に父・織田寛貞が犬山城の織田信清とともに織田信長と敵対。戦いに敗れた織田寛貞のその後は不明です。子の織田忠寛は織田信長に仕えました。楽田城は坂井政尚が城主となったため、日置城に入ったとすればこの頃と思われます。織田信長のもとでは対武田外交を担い、何度か甲斐へ赴いています。後に織田信長の子・茶筅丸(織田信雄)の後見を務め、伊勢の安濃津城主となりました。しかし、北畠具教一族を滅ぼす際に消極的な言動が目立ち、1577年に誅殺されました。

所在地:愛知県名古屋市中区松原1丁目(松原緑地)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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