2015/05/30
小林城/名古屋市中区
小林城は清浄寺となっています。訪問日は2014年8月3日です。
▲東側の入口
小林城の入口です。名古屋の街のド真ん中です。背後の道は片側3車線もあるんです!・・・だんだん自分が田舎者に思えてきました


▲真ん中辺り
この細道が城跡に通じてる筈!そう思って歩いていましたが、城址碑とかの類は見当たらず。木々の生い茂る中にお寺っぽい建物がありました。玄関先に書かれている文字は「矢場地蔵堂」矢場地蔵は清浄寺の御本尊なのだそうです。

▲西側の入口
さてさて、あれ?城跡を示す物も見つからずに反対側の出口に・・・!説明板ありましたヽ(´∀`)ノ右側の「矢場地蔵尊」の石碑の脇です

◆歴史◆
1548年、牧長義により築かれました。
織田信秀が東の今川氏・松平氏に備えて古渡城から末森城へ移りました。この時に牧長義は古渡城の近くに小林城を築き、川村北城から移りました。後に出城として島田城を築き、一族の牧虎蔵を守将としています。
牧長義は尾張守護・斯波氏の一族です。最後の尾張守護・斯波義銀とは従兄弟です。正室は織田信秀の妹であり、信秀とは義兄弟ということになります。牧長義の子・長清も信秀の娘を娶っており、2代続けて織田家と婚姻関係にありました。
1570年?、廃城となりました。
牧長義の子・長清が当地で没しました。牧長清は武将としての事跡が伝わっていません。登山が趣味だったようで、富士山に3回登ったそうです。牧長清の没後、小林城は廃城となりました。
1615年、柳生利厳が尾張藩の剣術師範となりました。
柳生利厳は柳生石舟斎の孫で、宗矩の甥です。1603年に加藤清正に仕えました。その際に石舟斎は「三人斬るまでは死罪にしない」ことを条件にしたそうです。石舟斎の不安は的中し、翌年、利厳は同僚を斬り捨てて出奔してしまいました

1701年、清浄寺が建立されました。
徳川家累代の祈願所として、尾張藩2代藩主・徳川光友により清浄寺が建立されました。徳川光友は1700年に没しているので、亡くなった後に完成したということでしょうね。この時に名古屋城内にあった矢場地蔵を移し、清浄寺の本尊としました。
所在地:愛知県名古屋市中区大須4丁目(清浄寺)
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