2015/05/30
島田城/名古屋市天白区
島田城は本丸が削られつつ残っています。訪問日は2014年8月4日です。
▲道から見た所
島田城は道が城跡をこんな感じに貫いています。一応周囲より高かった、ということだけは分かりますよね。平城ですから高低差はせいぜいこんなものでしょう。

▲通路
手前の説明板の脇に階段があるので登ってみました。すると、奥へと続く通路が。本能のままに吸い寄せられて行くのでしたw

▲階段
何やらここ登れ的な階段が。あ・や・し・い~!と思いつつ、体が勝手に吸い寄せられて行きます。

▲祠
登った先には小さな祠が!常に手入れがされているように見えます。周囲に城主様のご子孫が大勢いらっしゃるようですね^^
◆歴史◆
1548年頃、牧長義が小林城の出城として築きました。
1548年、織田信秀は三河に攻め入りましたが、松平・今川連合軍に撃退されました。これが第二次小豆坂の戦いで、織田信秀は末森城を築いて居城を移しました。この時に牧長義が小林城を築き、その出城として島田城を築きました。島田城には一族の牧虎蔵を置いて守らせました。
地図で見ると小林城は古渡城の近くで、島田城はその南東7kmの所に位置します。松平・今川勢に備えて織田信秀が築き移った末森城も、小林城の東にありました。この配置は何となくですが、織田氏が牧氏を守っているように見えます。
牧氏は尾張守護である斯波氏の一族です。斯波義達の子・津川義長を祖とし、義長の子・長義から牧姓を名乗るようになりました。牧長義は織田信秀の娘を子の長清の正室に迎えています。つまり、牧長清と織田信長は義兄弟ということになります。
その後の島田城の様子はわかりませんでした

牧氏は島田城のすぐ北にある島田地蔵寺を菩提寺としています。1442年に建立されて何度か廃れたそうですが、1541年に牧義次により修築されています。また、1560年に戦火によって焼失しましたが、後に牧義汎により再建されています。
1560年といえば、桶狭間の戦いがあった年です。織田軍と今川軍が小競り合いを繰り返した大高城や鳴海城は、島田城の南西約6kmの所です。推測ですが、島田城も今川方に攻められたと思われます。
牧氏は牧長清の曾孫・盛永の時に岡村姓に改姓したそうです。そのため、支流の牧長正が牧氏を継承し、子孫は江戸幕府旗本として続きました。また、長正の孫である勝重は本家から分かれ、尾張藩士となっています。
所在地:愛知県名古屋市天白区島田5丁目
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