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末森城/名古屋市千種区

末森城は城山八幡宮となっています。訪問日は2014年8月3日です。

末森城/①案内図
▲案内図 拡大表示

城山八幡神社の案内図です。神社の案内図ですが・・・空堀跡がいっぱいヽ(´∀`)ノ3段になった地形がお城っぽいです!

末森城/②城山八幡神社
▲城山八幡神社

社殿の前にある門です。廃城後すぐに神社が勧請されたようなので、お城の配置が生かされていると思います。なので、お城だった時もきっとここに門があったのではないでしょうか?

末森城/③二の鳥居
▲二の鳥居

案内図で一の鳥居のすぐ上にあるので、勝手に二の鳥居かな?なんて思いました。堀→城塁と、お城だった時の名残がバッチリですね!ここは元々の登城路ではなく、神社になってから付けられた道のように見えます。

末森城/④堀跡
▲堀跡

この鳥居の手前の橋の下がこんな感じです。堀跡がしっかり残っています恋の矢

末森城/⑤城址碑
▲城址碑

そして、城跡に欠かせない城址碑です!遺構バッチリでこいつがある城跡は、城キチの心の栄養ですw


◆歴史◆

1548年、織田信秀により築かれました。

この年、織田信秀は今川義元・松平広忠と戦っています。(第二次小豆坂の戦い)6年前の第一次小豆坂の戦いの後、織田信秀の勢力は西三河に至りました。1544年には刈谷城の水野信元、1547年には田原城の戸田康光が織田方に寝返りました。戸田康光は、松平広忠から今川義元への人質・竹千代(後の徳川家康)を尾張へ護送しました。竹千代の身柄を得た織田信秀は松平広忠に迫りましたが、拒否したため戦となりました。戦いは岡崎城付近の小豆坂で行われ、引き分けに終わっています。末森城が築かれたのはこの頃で、織田信秀は末森城を新たな居城としました。

1551年、織田信秀が没しました。

織田信長の同母弟・織田信勝(信行)が城主となりました。当時「うつけ者」と呼ばれていた信長に対し、信勝は優等生タイプでした。そのため、旧来の家臣達は信勝に家督を継がせようとする機運が起こりました。信勝は父の名乗りである「弾正忠」を名乗るなど、対立を深めて行きました。

1556年、織田信勝が挙兵しました。

林秀貞・通具兄弟、柴田勝家らとともに挙兵しました。清洲城近くの稲生で両軍が激突しましたが、兵力差を覆して信長が勝利しました。信勝は末森城に篭城しましたが、母・土田御前の嘆願により両者は和議を結びました。

1557年、織田信勝が謀殺されました。

「信勝に謀叛の動きがある」と柴田勝家が信長に密告しました。この頃の信勝は津々木蔵人を重用しており、柴田勝家は疎まれていたようです。信長は病が重いと偽って信勝を清洲城へ呼び寄せ、城内で謀殺しました。末森城がいつ廃城になったのかはわかっていません。


所在地:愛知県名古屋市千種区城山町2丁目(城山八幡宮)

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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