2015/05/27
上野城/名古屋市千種区
上野城は上野小学校辺りで、永弘院というお寺に城址碑があります。訪問日は2014年8月3日です。
▲山門
お寺の山門も、見ようと思い込みによっては城門に見えるような気がします。だんだん城キチ病が進んでいるような気がしなくもないですが・・・自覚があるからまだ大丈夫ですよね?

▲本堂
広い境内には立派な本堂があります。お寺の本堂も、見ようと思い込みによっては本丸御殿のように見えるような気がします。・・・ほんの数歩進んだだけで、症状も進んだ気がしますが・・・まだまだ自覚はあるので、きっと大丈夫だと思います。

▲城址碑
この境内の片隅に立派な城址碑があります。ほらやっぱり!....

遺構は何もありません。
◆歴史◆
1532年頃、下方貞清が築城しました。
・・・とあちこちに書かれていたのですが、下方貞清は1527年生まれです。流石に5歳で築城はないかとwww常識的に考えれば父親の下方貞経が築き、下方貞清を城主としたのでしょう。それと「1532年頃」という表現が気になります。何か躊躇があるような?
近所には北に守山城、南に末森城があり、そちらの歴史も参照してみます。
まずは守山城。
築城は1521年ですが、松平信定が築いています。これは今川氏豊が那古野城を築いたことに対応したものです。・・・尾張の一部は今川氏の勢力圏だったんですね。そしていつかは不明ですが、織田氏が奪い、織田信秀の弟・信光が城主となっています。1535年には守山城を奪還しようと、松平清康が攻めています。
次に末森城。
築城は1548年、織田信秀により築かれました。
・・・参考にならず

1532年で思い浮かぶのは、織田信秀が那古野城陥落させたことです。これ自体、1538年説もあり不確かなのですが。争奪戦で1532年、1538年の2回奪ったってのも可能性としてはアリですが・・・1533年に織田信秀が那古野城主の今川氏福を勝幡城へ招いて蹴鞠をしてます。やっぱり1538年でしょうか?ここまでくると「近所」ではありませんが

この年代にあった大きな事件は、1535年にあった「森山崩れ」です。織田信秀に奪われた守山城を奪い返そうと、三河の松平清康が攻めてきました。この時、陣中で松平清康が家臣に斬殺され、松平氏は一気に求心力を失いました。・・・この頃なら、やすやすと城を築けると思います。
1538年、下方貞清により永弘院が建立されました。
永弘院の寺史によると、下方貞清が上野城の北東に建立したとあります。そのため、この頃には既に上野城があったことになります。
1542年、城主・下方貞清が小豆坂合戦で大活躍しました。
森山崩れで松平氏が一気に弱体化したため、織田信秀は西三河に勢力を拡大しました。その版図は松平広忠の居城・岡崎城のすぐ目前にまで迫っていました。この状況を打破しようと、駿河の今川義元が出兵し、織田信秀が迎え撃ちました。この戦で下方貞清が大活躍し、「小豆坂七本槍」と賞賛されました。下方貞清はその後も槍働きで活躍し、一番槍を六度も獲得しています。
廃城時期は不明です。
下方貞清はその後も活躍し、桶狭間の戦や伊勢攻略、越前朝倉攻めなどに参戦しています。本能寺の変の後は織田信雄や松平忠吉に仕え、1606年に清洲城で亡くなりました。子孫は代々尾張徳川家に仕えたそうです。
所在地:愛知県名古屋市千種区上野1丁目(永弘院)
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