2015/05/24
御器所西城/名古屋市昭和区
御器所西城跡には尾陽神社があります。訪問日は2014年8月3日です。
▲尾陽神社
城跡の尾陽神社です。段差になった地形がそれっぽくてイイですね!この中に城址碑と説明板も写っているのですが、わかりますか?

▲城址碑
城址碑は右の方にあり「尾陽神社」と刻まれた碑です。この石碑の側面にホラw裏側だったら見つけられませんでした。

▲説明板
説明板はと言うと、左の大きな白い板ではなく、鳥居の右脇にある狛犬の陰にあります。これはちょっと・・・・なぜか「御器所城を探せ」的な感じになっていますw
◆歴史◆
嘉吉年間(1441~44年の間)、佐久間美作守により築かれました。
佐久間美作守は御器所西城を築き、御器所一帯を治めていました。御器所八幡神社に1441年に修繕を行った際の棟札が残っています。神社は御器所荘の総鎮守として祀られ、佐久間氏が度々修繕しているそうです。佐久間美作守は佐久間盛通の外祖父なんだそうです。
西・・・というと東も気になりますよね?実は東もありました。直線距離で300m程東で、現在は住宅街となっています。城主は佐久間氏の家臣・服部将監でした。
1556年、稲生の戦いで佐久間大学允が織田信長に味方しました。
当時の城主は佐久間大学允(盛通の子)で、織田信勝(=信行)の家老を務めていました。しかし、織田信長・信勝兄弟で戦が避けられない状況になると、信長に味方しました。
・・・この辺の動きが複雑ですよね?w
織田信長の家老・林兄弟が信勝に、信勝の家老・佐久間大学允が信長に味方したのです。誰の家臣になるかなんて選べない時代、こんな時だからこそ意思表明したのでしょうか。
1560年、佐久間大学允が桶狭間の戦いで討死しました。
今川義元が討ち取られたことで有名な戦ですが、当然織田方にも犠牲は出ました。佐久間大学允は丸根砦を守っており、松平元康(後の徳川家康)に攻められ討死しました。
子の佐久間盛昭が跡を継いだと思うのですが・・・この人の事はよくわかりません。織田信長の馬廻衆から、丹羽長秀の家臣となり、奥山へと改姓するようです。奥山は先祖ゆかりの地である越後の地名なのだそうですが、上総じゃないんですね?wこの改姓がいつなのか?ですが、これを機に御器所西城を近い一族に譲ったのでしょうか。
近い一族だと、佐久間大学允の従兄弟である佐久間盛次でしょうか。盛次の子・盛政は御器所西城で1554年に生まれています。母親は柴田勝家の姉なんですけどねw
佐久間盛政が居城とした後、廃城となりました。
佐久間盛政は伊勝城を築いて居城としていましたが、御器所西城に移ったとされます。これがいつなのかがサッパリですが┐(´∀`)┌伊勝城の方でも書いたのですが、この辺の経緯がわかりません。伊勝城を築いたのが天正年間(1573~)で、越前に移ったのが1575年だからです。両城ともに、佐久間盛政が居城とした時期はかなり短かったものと思われます。廃城時期も不明です。
こんな時は、今ある神社仏閣の縁起を辿ったりするんですが・・・尾陽神社が城跡に創建されたのは1910年、明治時代末なんだとか。それまでここはどんな状態だったのかもわかりませんでした

所在地:愛知県名古屋市昭和区御器所2丁目(尾陽神社)
愛知県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント