2015/05/17
飯山城/長野県飯山市
長かった長野シリーズもようやくトリです!トリなのですが、要再訪です
訪問日は2008年8月17日です。

▲図 拡大表示
本丸の葵神社前にあった説明板の案内図をパクリました。この図によると、飯山城は周囲を水堀で囲まれた平山城だったようです。地図を見比べると、お城を囲んでいる道が堀跡のようです。ちなみに、現在の説明板はこの図ではなく、古図にグレードアップしているようです。

▲葵神社
本丸にある葵神社です。社殿の前に案内図付きの説明板が見えます。よそのサイト様を拝見すると、ここが本丸です





▲三の丸
本丸から二の丸をスルーして三の丸です。何となく城内をふらふら歩いていて、当時ここが一番高いと感じていました。これ書こうとあちこちのサイト様にお邪魔したら、見てない石垣の写真がゴロゴロと・・・それらを拝見し、枡形虎口や二の丸の石垣にすら気付いてなかったことがわかりましたT_T・・・こりゃリベンジせないかんです


▲石垣
本丸→→三の丸と歩き、下った所が西の丸、その外側の駒場が駐車場となっています。その駒場からお城側にこの立派な石垣があります。当時一番感動したのがこの石垣だったのですが・・・どのサイト様にも登場しないという事は、後世のものなのでしょうかT_T今写真を見ても往時のもののように見えるのですが・・・どうなんでしょう?

▲模擬城門
再び表に出て城門をじっくり見ました。綺麗に保存されている門だなぁなどと感心していましたが・・・門の説明板の文面をつい先程読んで納得しました。その説明板によると、どこかの門が移築されていたが解体され、その廃材を使ったとのこと。要するに材料だけは本物で、姿かたちは何となくそれっぽく組み立てたという事です。・・・こういうのは現地で読まないとwww
◆歴史◆
泉氏の城でした。
築城時期は不明です。泉氏は鎌倉時代から飯山周辺の常盤牧を領有していた国人です。戦国時代に高梨氏が寓居しているため、何らかの関わりがあったと思われます。
高梨氏は越後で守護・上杉氏と守護代・長尾氏が対立した頃、長尾氏を支援していました。高梨氏周辺の市河氏や島津氏などは、守護の上杉氏を支援していました。飯山は越後に近いため、深く関わっていたのは間違いないのですが・・・
1510年に長尾為景は高梨政盛の援軍とともに関東管領・上杉顕定と戦って破っています。高梨軍は飯山を通る筈なので、高梨氏と同じく長尾氏を支援していたかもしれません。泉氏が高梨氏の家臣として組み込まれたのは1542年頃と考えられています、
1559年、高梨政頼が移って来ました。
武田軍に本拠地・中野の小館を攻め落とされた高梨政頼が飯山城へ移って来ました。城主は泉弥七郎(=尾崎重歳)です。高梨政頼が援軍が来なければ武田軍に降ると強気に出たため、長尾軍が援軍に来ました。
1561年、高梨政頼が春日山城に移りました。
高梨政頼は長尾景虎の小田原城攻めには帯同せず、飯山城で武田軍に備えていました。長尾景虎は鎌倉で上杉政虎に改名し、そのまま川中島へ向かい第四次川中島合戦となりました。上杉家臣の桃井義孝、加地春綱らが援軍として飯山城に駐留しました。この時に泉八家(泉一族の8氏)の内、岩井満長だけが春日山城へ移りました。
1563年、一時的に武田軍に乗っ取られました。
上杉輝虎が関東へ出陣している隙を衝き、一時武田軍に占領されました。翌月には上杉軍が奪回し、泉七家が常に城を守るよう厳命されます。岩井満長はこの頃から上杉輝虎の直臣となりました。
1564年、上杉輝虎により改修されました。
第五次川中島合戦の後、上杉輝虎がじきじきに指揮をとり改修されました。城主は引き続き泉弥七郎が務め、泉七家の他に、上杉直属軍も配置されました。以後、飯山城は武田軍との最前線となりました。
1568年、武田軍に攻められましたが撃退しました。
4月に越後の本庄繁長が武田信玄に内応し、謀叛を起こしました。武田軍は7月に飯山城を攻めましたが、攻め落とすことは出来ず撤退しました。翌年になると武田信玄は三国同盟を破棄し、上杉輝虎と和睦しました(甲越和与)。
1578年、上杉謙信が没し、越後は内乱状態となりました(御館の乱)
上杉謙信が急死し、養子の上杉景勝・景虎が家督を巡って争いました。この時、飯山城の泉七家では大滝氏だけが景勝方で、ほぼ景虎方となりました。そのため、景勝方の小森澤政秀の攻撃を受けています。
1579年、武田勝頼の城となりました。
御館の乱の最中に上杉景勝が武田勝頼と同盟を結びました。(甲越同盟)この同盟の条件として、飯山城は武田勝頼に割譲されました。武田勝頼は当初、上杉景虎の援軍として一門の武田信豊に出陣させていました。飯山城の泉七家が無事でいられたのは、この武田軍の動きによるのではないかと思います。
1582年3月、武田勝頼が滅ぼされました。
織田信長により武田勝頼が滅ぼされ、飯山城は森長可の支配下となりました。尾崎重元は越後に逃れ、織田軍に下った武田旧臣の市川信房が城代となりました。
1582年6月、岩井信能が城主となりました。
本能寺の変により森長可が美濃へ逃げ帰り、上杉景勝が北信濃一帯を制圧しました。この時、岩井信能が飯山城城代・市川信房に開城させています。岩井信能は泉一族の庶流ですが、嫡流の尾崎重元と立場が逆転しました。(尾崎重元は岩井信能の配下となっています)
1598年、上杉景勝が会津へ移されました。
泉八家も上杉景勝に従って会津へ移りました。豊臣家臣の関一政が城主となりましたが、翌年美濃へ移りました。以後、短期間で城主の交代が相次ぎます。
1717年、本多氏の城となり、明治維新まで続きました。
本多利久が飯山藩主となり、本多助芳と改名しました。以後、明治維新まで本多氏が飯山藩主を務めました。
1868年、幕府軍と明治政府軍の戦いの場となりました。
鳥羽・伏見の戦いの敗残兵を集めた衝鋒隊が越後で体勢を整え、飯山へ侵攻しました。ここで明治政府方の飯山藩・松代藩・川中島駐留の尾張藩と戦いになりました。衝鋒隊は撃退しましたが、戦いで飯山城の西半分が焼失したようです。
1871年、廃藩置県により飯山藩は廃藩となりました。
この時に廃城になったとみられ、翌年から城の解体が始まりました。建築物の一部は移築され、現存しているものもあります。城内の説明板に記載されているものは以下の通りです。
・南大手門(2層目焼失):信雙寺(長野市)
・不明門:妙専寺(飯山市)
・裏門と伝わる門:長野市の民家
・どこか不明だが飯山城の門:中野市の民家
城内にあるそれっぽい門は、これらとは別の「飯山城のものと思われる」移築門でした。その移築門が1993年に解体されたため、廃材を譲り受けて組み立てられました。大きさや姿かたちは南中門と同じにしたそうです。
所在地:長野県飯山市飯山
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