2015/05/16
荒砥城/長野県千曲市
荒砥城は中世城郭の様子が復元されています。訪問日はちょっと昔の2007年7月7日です。

▲図 拡大表示
荒砥城への道は綺麗に舗装されており、バイクでも安心して登れます。訪問当時はクルマでしたけどwその駐車場に案内図の板があります。始めに書きますが、ここは有料です。

▲案内所の門
図に描かれている「案内所」です。冠木門と小屋があるだけで、簡単には通してくれなさそうな雰囲気を醸しだしています。・・・くれぐれも強行突破はなさらないで下さいネw

▲城門
さらにウネウネ登ると、先ほどよりも堅牢そうな城門が現れます。これが二郭のだったか主郭のだったか忘却の彼方ですが・・・


▲兵舎
・・・と書いたものの、兵舎はこれです。大人数は入れませんよね


▲主郭の虎口
それでも、この虎口は見事なものです。規模は小さいながら、簡単には攻め落とさせまいとする決意が感じられます。
蛇足ながら、信濃の山城ではこんな感じの石垣が多いように思います。2013年の夏休みに長野をグルッと巡りましたが、夏ということで山城訪問を断念しています。行って見たい!と思った山城は、こんな感じの石垣がある所ばかりでした。

▲主郭からの眺め
主郭から千曲川方向を見た眺めです。両岸を山に挟まれた千曲川流域が一望のもとに見渡せます。見張り台としては最高の場所ですね!
◆歴史◆
1524年、村上氏一族の山田国政により築かれました。
村上氏一族の山田国政により、葛尾城の支城として築かれました。葛尾城は千曲川を挟んだ対岸にあります。この頃の村上氏は北の高梨氏、南東の海野氏と争って勢力を拡大している時期です。この時の当主は、まだ家督を継いだばかりの村上義清です。
1550年、武田軍に砥石城を攻められましたが撃退しました。俗に言う「砥石崩れ」です。この時の砥石城城代が山田国政でした。
1551年、砥石城が真田幸綱(幸隆)により乗っ取られました。城を守っていた矢沢頼綱が真田幸綱の弟でしたからねwww
1553年、武田軍に攻められ落城しました。
武田軍に攻められ落城し、山田国政は討死しました。その後、村上氏本拠の葛尾城も落城し、村上義清は越後へ逃れました。長尾景虎が村上領回復のため出兵し、葛尾城を一時的に取り戻しましたが・・・長尾軍撤退後、すぐに武田軍により奪い返されました。荒砥城には村上義清を裏切った屋代政国に与えられました。
その後、武田家滅亡、天正壬午の乱と信濃は荒れますが、屋代氏が城主であり続けました。
屋代政国の没年は定かではありませんが、甥の屋代秀正が家督を継ぎました。天正壬午の乱を経て、この辺りまで上杉景勝の支配地域となっていました。屋代秀正は海津城の副将として厚遇されていました。しかし、城主・山浦国清(村上義清の子)とは仲が悪かったとされています。
信濃府中の深志城は小笠原貞慶が支配し、上杉景勝と境界を争っていました。その係争地が荒砥城のすぐ西にある麻績でした。
1584年、廃城となりました。
1584年4月、室賀満俊とともに突然徳川家康方に寝返り、荒砥城に立て篭もりました。上杉方の山浦国清に攻められて落城し、屋代秀正は徳川家康のもとへ逃れました。主を失った荒砥城は、この時に廃城になったとみられます。
ところで、室賀満俊は屋代秀正とは実の兄弟でしょうか?屋代政国の弟が室賀満正で、屋代秀正は室賀満正の四男でした。屋代政国の子は皆討死したため、甥っ子を養子に迎えて家督を継がせていました。わかっている続柄と名前から何となくそんな感じがしただけですが

1995年、城山史跡公園として整備されました。
5年も掛けて復元(開発?)したんだそうです。「城 = 白亜の天守」って短絡的発想に走らず、ちゃんと木造で整備されています。
こういう城跡は大好きです

所在地:長野県千曲市上山田
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