2013/03/10
小松城/神奈川県相模原市緑区
相模と甲斐の国境シリーズ第1弾!昨日4箇所行ってきました。1発目は小松城。
小松城跡には宝泉寺があります。
お寺は館跡に建てられているそうです。
館の背後に城・・・
これは殿谷戸(とのやと)形式ですね!
先週見てきた小山田城と同じような造りになっています。


後で2枚つなげようなんて思ってなかったのでw
それにしても凄い数のお墓です。
その広い広い墓地の脇に怪しげな階段が・・・

これはどうみても裏山に登れ!的は階段なのであります。
そんな階段見て登らない訳には行きませんね!
もし違っててもすぐに下りられそうなので。

階段を登り切るとなにやら小さな祠がありました。
後で知りましたが、ここが主郭の跡です。
その奥には「私有地につき立入禁止」が。
・・・ということは、ここに入ろうとする人が後を絶たないということですね。


立入禁止じゃない方の道を進んで行くとT字路に。
その脇に説明板がありました!
これがあると城跡がとても見やすくなります。
写真を並べてみたら偶然にもピッタリ合いましたヽ(´ー`)ノ

説明板には簡単な歴史と城の造りが書かれていました。
規模はそれほど大きくはなかったんですね・・・
この板を見て、見所は櫓台と堀切だということがわかりました。
この説明板、内容は素晴らしいのですが設置方法が・・・
図は北が上なのですが、道の南側にあるので現地とは向きが反対です。
真ん中の下の方に小さく小さくそんな断り書きがありましたw

説明板から、すぐ左側のこんもり盛り上がっているのが櫓台だとわかりました。
・・・ということは、さっきの立入禁止はこの櫓台に登る入口なのでしょうか?

お城は南北を川に挟まれた台地の先端部分にありました。
南側は緩やかでしたが、北側は急斜面。高さは10m程ありそうです。

西に2つ、東に3つある内の一番大きな堀切です。
尾根筋をザクッと断ち切っていますね!
・・・その脇に金比羅宮の参道ということで、緩やかな道が通っています。
当時そんな道があったら堀切なんて意味ないので、道が出来たのは後の時代ですね。
◆歴史◆
鎌倉時代の初期に永井(長井?)大膳大夫広秀が片倉城の出城として築いたとされます。その契機となったのが1213年にあった和田合戦。ご他聞に漏れず、北条氏による重臣の粛清です。この戦いは・・・長くなりそうなので、ザックリした内容はWikipediaで見て下さいねw
それまでは横山党の領地であった相模北部は大江広元の領地となりました。この時に片倉城の城主となったのが、広元の一族・永井(長井?)広秀です。
その後の歴史については殆ど分かっていません。しかし、城の西には紅葉の名所・評議原という所があります。
何が「評議」されたかといえば、どう降伏するかについてだそうです。集まったのは片倉城・津久井城・小松城の城主達。いつ「評議」したかといえば、豊臣秀吉による小田原征伐の時です。・・・ということは、1590年まではお城として使われていたのですね!

所在地:神奈川県相模原市緑区川尻
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