2015/05/11
福島正則館/長野県高山村
福島正則の屋敷跡は高井寺になっています。訪問日は2013年7月31日です。

▲県道からの入口はココ
福島正則の屋敷跡は県道からちょっとだけ入った所にあります。角に標柱はあるのですが、電柱と火の用心の方が目立ってしまってます


▲石垣で囲まれています
屋敷跡は石垣で囲まれていますが・・・なんかちょっと違う感じ。後で調べたら、この石垣は江戸時代にお寺が土塁と堀を崩して築いたものだそうです。江戸時代に組まれているのですが、やっぱりお城のものとは感じが違いますよね。

▲お寺の入口
虎口・・・なんて思ってましたが、普通に門ですwその右脇にある白い板は、お寺の縁起ではなく福島正則館の説明板です。土塁の一部が残っているんですね!・・・その場でちゃんと読めばよかった。ということで、「お寺の」石垣だけ眺めて満足しちゃったのでした


▲荼毘の地
ここに来る途中で道端に「福島正則荼毘の地」の案内があったので見てきました。高井寺の北の田んぼの中にポツリとあります。お墓だと勝手に勘違いしていたのですが、「荼毘」というのは「火葬」の事です。幕府の検死役が確認に来る前に火葬してしまったため、福島家は再び改易されてしまいました。
◆歴史◆
1619年、福島正則が改易されました。
台風で広島城の石垣が破損したため修理したのですが・・・城の改修がまだ許可されていなかったため、武家諸法度違反とされ改易されました。安芸45万石は没収され、信濃高井野2万石、越後魚沼2万5千石の合わせて4万5千石となりました。福島正則は家督を嫡男・福島忠勝に譲り、隠居しました。
1620年、福島忠勝が没しました。
改易の翌年、家督を継いでいた福島忠勝が没しました。福島正則は悲しみの余り、越後魚沼の2万5千石を幕府に返上しました。
1624年、福島正則が没しました。
屈辱に堪えられなかった正則が発作的に切腹したという説があります。幕府の検死役が到着する前に火葬したのはそのためだというのです。この事が原因で、福島家は再び改易されてしまいました。その後は三男・福島正利が3112石の旗本として存続しました。
所在地:長野県上高井郡高山村高井八幡添
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