2015/05/10
高梨氏館/長野県中野市
高梨氏館跡はガッチリと堀に囲まれています。訪問日は2013年7月31日です。

▲石碑
高梨氏の館跡は、南側の道路に面した所に駐車場があります。そのすぐ脇にこの石碑があります。この石碑には「高梨小館城址」と彫られています。高梨氏館は別名が高梨城、高梨小館、中野小館、中野御館、中野城など、沢山あります。

▲堀
館の外周をぐるっと堀が囲んでいます。かなり浅くなっているようですが、ちゃんと1周囲んでいます。訪問した時に撮った写真は9割方が堀でした。さすがに堀ばかり載せるのも何なので、とりあえず入口の所のだけにしておきます。

▲虎口
この入口を内側から見た所です。こちらにも石碑があり「高梨氏館跡」と彫られています。虎口の内外で違う名前で彫るなんて、どこかとどこかが対立しているのでしょうか?そんな事を想像しながら訪城するのも楽しいもんです♪

▲内側
内側は広場となっており、建物の礎石跡などがあります。特にこれといった物が目に付かなかったのですが・・・庭園跡があったようで、かなり貴重なのだそうです。興味が無い所はとことん見えていません


▲土塁の説明板
ここは土塁についての説明板があります。土塁の役割について書かれた物はよく見ますが、土塁の構造について書かれた物は珍しいです。この説明板によると、土塁は3段階を経て現在の形になったそうです。どうせなら、そのすぐ脇にある堀の移り変わりも一緒に書いてくれると嬉しいのですがw
◆歴史◆
1513年頃、高梨政盛により築かれたと考えられています。
高梨氏は元々は檬原(くぬぎはら)荘(=小布施町辺り)を本拠としていました。越後の守護代である長尾氏と婚姻関係を結ぶことで、勢力を拡大しました。越後では守護・上杉房能と守護代・長尾為景が対立していました。高梨政盛は長尾為景とともに1509年に守護・上杉房能を討ちました。この翌年には弟を討たれた関東管領・上杉顕定が越後に攻め込みましたが・・・一時優勢であったものの、最終的には長尾軍に敗れ、上杉顕定は自害してしまいました。
北信濃では越後の情勢に合わせ、上杉方と長尾方に分かれて争っていました。高梨氏が勢力を拡大したのも、上杉方の国人を駆逐した結果だと思います。ただ、中野氏の動向はわかりませんが、中野氏と関係の深い市河氏は長尾方でした。高梨政盛が中野氏を倒した理由はよくわかりません。
同年、高梨政盛が没すると、中野氏残党が挙兵し、家臣の一部が謀叛を起こしました。家督を継いだ高梨澄頼が乱を鎮圧しましたが、以後も不安定な状況が続きました。
1559年、武田軍の高坂昌信により攻め落とされ、高梨政頼は飯山城へ退いた。
武田軍は善光寺平からジワジワと北上し続けていました。突然武田軍に襲われたため支えきれず、高梨政頼は飯山城まで後退しました。自力で領地を保つことが出来なくなり、この頃に長尾家臣となったようです。
1582年、天正壬午の乱により、高梨氏が中野に復帰しました。
武田勝頼が織田信長に滅ぼされた直後、今度は織田信長が謀叛により斃れました。まだ支配して日が浅い甲斐・信濃で武田旧臣が蜂起したため、織田家臣が逃亡しました。こうして出来た広大な空白地を巡り、上杉景勝、徳川家康、北条氏直らが争いました。この結果、善光寺平以北を上杉景勝が勝ち取ったため、高梨頼親が中野に復帰しました。
1598年、廃城となりました。
上杉景勝が越後から会津へ移され、高梨頼親はこれに従いました。そのため、高梨氏の館は廃城となりました。・・・何だか表現が不自然です

2007年、国の史跡に指定されました。
所在地:長野県中野市小館
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