2015/05/07
大倉城/長野市
大倉城は善光寺平と上越を結ぶ街道沿いにありました。訪問日は2013年7月31日です。

▲遠景
大倉城は国道18号沿いにある山城です。地図を見ると、なぜここに城が築かれたのかすぐにわかりました。ここは善光寺平から越後への道が通っています。しかも、春日山城のある上越に!

▲登城口
登城口は国道からチョットだけ脇に入った所にあります。行く前に地図見ていた時はこの右脇の道を上がって行けばスグだと思っていたのですが・・・この道を上がって行くと、突き当たりは普通に民家が1軒あります。この家の敷地を通って・・・という雰囲気ではなかったので、引き返しました。

▲案内図 拡大表示
そして元の登城口へ。この図を見ると「結構登るな~」と思い、「真夏だし」と、パスしてしまいました。冷静に見れば、比高はおおよそ70m程。真夏とは言え、これ位ならよそで登っていたのですが

◆歴史◆
1185年、小笠原長清が築いたとされます。
小笠原長清は九男・与市長澄を配置し、与市長澄は地名をとって大倉姓を名乗りました。大倉氏は鎌倉時代末までは当地を治めていたことがわかっています。しかし、室町時代に入ってからは大倉氏についてわからなくなります。
1342年、大倉郷を巡り称名寺と島津氏が争いました。
島津氏といえば薩摩ですよね!その島津氏の一族が1221年にあった承久の乱の後、近くの長沼郷の地頭となりました。以後、戦国時代まで北信濃の有力国人として活動します。この頃の島津氏は反守護勢力だったようで、斯波氏や小笠原氏に反抗していました。1400年にあった大塔合戦も、島津氏が守護方の赤沢氏や櫛置氏らと戦ったことがキッカケです。
島津忠直(月下斎)は武田軍に抵抗しました。
1553年に武田軍が村上義清の葛尾城を攻略し、村上義清は一時越後へ逃れました。その月の内に村上義清は越後勢の援軍を得て葛尾城を奪回しました。島津氏は長尾景虎を頼り、武田軍への抵抗を続けました。
1557年、武田軍が再び葛尾城を奪回しました。この時には島津忠直の本拠・長沼城から越後寄りの大倉城へ退きました。その後、島津忠直は戸屋城の城番を命じられ、武田軍の侵攻に備えました。
川中島合戦の後に一度廃城となりました。
最後に川中島で上杉軍と武田軍が戦ったのが1564年です。この時は60日程にらみ合いが続いた後、両軍とも兵を退きました。上杉輝虎(謙信)は飯山城を修築して越後へ帰りましたが・・・武田軍が善光寺平全域を掌握したんだそうです。
・・・これで廃城?というのもちょっと不自然なので、少し掘り下げてみました。武田軍はこの後、上野国へ侵出しました。ここでも上杉軍と武田軍は戦っているのですが・・・
1567年10月、武田信玄の嫡男・義信が謀叛を企てたとして自害させられました。武田義信の妻は今川義元の娘でしたが、この時駿河に帰されています。このため駿河・相模との同盟が解消され、両国から塩の売買が禁止されました。これを知った上杉謙信は、何と宿敵・武田信玄に塩を送りました。
それ以降、武田軍は上洛を目指すよう方向転換しています。武田信玄が四方を敵で囲まれるようなヘマをするとは考えにくいです。この時に上杉謙信との間で密約でも結んだのでしょうか?廃城になったとすればこの時かな?なんて思います。
1582年、破却されました。
織田信長により武田勝頼が滅ぼされた後、武田旧臣の芋川親正に北信濃の4郡が与えられました。しかし、芋川親正は海津城に入った森長可には従いませんでした。森長可が上杉討伐のため出陣を要請すると、芋川親正は挙兵して大倉城に篭りました。この時の芋川軍に長沼城主・島津忠直も同調しています。しかし、芋川軍は森軍に大敗し、2000人以上の犠牲を出して瓦解しました。芋川親正は負けを悟ると、上杉景勝を頼って越後へ逃れました。この戦の後、森長可は大倉城が再び使われないよう破却しました。
所在地:長野市豊野町大倉
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