2015/05/05
牧之島城/長野市
牧之島城は武田流築城術がテンコ盛りの超オススメのお城です。訪問日は2013年7月31日です。

▲図 拡大表示
Wikipediaの馬場信春のページにも登場している牧之島城。深志城、江尻城、諏訪原城etcは知ってるけど、牧之島って何処?って思ったアナタ。ココですw図に描かれている三日月堀がとても眩しく見えます。1年半前に訪ねたのですが、コレ書きながらまた興奮してます。ある意味変態ですからwww図が南北逆なのでひっくり返そうかと思いましたが、現地に合わせて敢えてこのままにします。
図は城跡の入口の説明板にあるのですが、訪問時の時系列で書いて行きます。牧之島城へは、南西の小松尾城跡から国道19号を北上して向かいました。お城に通じる道は手前(西)から入る道と、ちょっと先(東)から入る道の2本あります。私の場合は特に予備知識もなく手前側で右折し、高校の南側を通る道を選びました。高校が郭の1つだったと何かで読んだ気がしたからです。皆様にはこっちのルートをオススメします。

▲学校寄りの空堀(図の右端の空堀)
それは、2本の大きな空堀が見えるからです



▲お城側の空堀(図の右から2番めの空堀)
スゴイもの見ちゃった!と興奮冷めやらぬ内に、クランクを曲がるともう1本



▲丸馬出し
でも!
まだ白目むいて失神するには早過ぎます。右カーブを曲がってお城側を見ていると、いきなりコイツが視界に飛び込んで来ます。う、、、馬出し




▲三日月堀
丸馬出しに見とれて忘れちゃいけないのが三日月堀です。丸馬出しの外側にあるので、ゼッタイ見落とさないで下さいネ!・・・いらない心配ですねw

▲馬出しの内側の空堀
馬出しと三日月堀が見事なのですが、お城側にある空堀もなかなか見事です。よそのお城なら、この堀見ただけでもウレシイもんですが。牧之島城の魅力はまだまだこれで終わらない所です。

▲千人枡形
空堀から城内へは木橋を渡って入ります。その木橋の先にあるのが千人枡形と呼ばれる虎口です。クネッとした曲がり具合がたまりません


▲主郭内部
いきなりですが、最初に入るのが主郭です。往時の進入路はどうだったのか気になります。主郭内部はガッチリと土塁で囲まれています。この安心感は、城キチじゃないとわかりませんね、きっとw

▲主郭と二郭の間の枡形(二郭から見た所)
主郭と二郭の間は水堀で仕切られており、両郭は枡形を通る造りになっています。かなり厳重な造りになっていますね!対越後勢に備えただけあって、郭の1つ1つがしっかりしています。それだけこのお城の重要度が高かったということですね!

▲石碑
エクトプラズムダダ漏れ状態での訪城だったので、この石碑が何処にあったのか忘れました。写真の並びや写り具合から、おそらく二郭の奥(西側)だったと思われます。ちゃんと「馬場信房之城趾」と彫られています


▲牧城の標柱!
牧之島城でお腹一杯になりつつも、長野市北部の次のターゲットへ向かいました。Uターンすればすぐ国道19号に乗れるので、普通ならそっちへ走ると思います。でも、私は何か憑いていた?のかもしれません。当日は県道12号を更に進んでから国道に合流するルートを選んだのです。これがまた吉と出ました。
走り始めてすぐに、道の左側にコレが見えたのです。お城センサーMax状態の城キチが「○○城跡」と書かれたものを見落とす筈が無いですよね?(※安全運転のためよそ見・脇見は控えましょう)

▲普光寺の山門
慌てて車を停めて、城跡と思しきお寺を見学したのでした。ただ、下調べを全くして無いノーマークの城跡だったので、見学ポイントが全くわからず。「城跡にお寺があるんだ~」と思い、すぐさま走り去ってしまいました。裏手には堀跡があるんだそうです

◆歴史◆
香坂氏の牧城が前身です。
築城年代は不明ですが、当地は鎌倉時代から香坂氏が支配していました。香坂氏は有力な国人であり、室町時代はじめ頃は南朝方として活動していました。そのため、西の仁科氏とは同調することが多く、東の村上氏とは対立していました。
1556年、香坂宗重が武田軍に降りました。
武田軍が松本平を制圧したのが1550年。安曇野各地の仁科氏庶流を各個撃破していたのがそれから3年程です。川中島で越後勢との戦いも既に始まっていました。香坂氏の制圧が遅れたのは山深い土地柄だったからでしょうか?しかし、この地が川中島から安曇野に直接つながっていることに気付いちゃったんですね。武田軍の前に、香坂宗重は戦うことなく従いました。その後、牧城には馬場信房(後に信春と改名)が城代となりました。
1566年、馬場信春により牧之島城が築かれました。
牧城をベースに、武田流築城術を結集した牧之島城が築かれました。城代は相変わらず馬場信春ですが、多分あんまりココには居ませんでしたよね?
1575年、馬場信春が長篠の戦いで討死しました。
武田勝頼の没落の始まりである長篠の戦いで、馬場信春は壮絶な討死を遂げました。山県昌景ともども戦いそのものに反対だったそうですが・・・馬場信春はそれまで数多の戦で先鋒を務めながら、かすり傷一つありませんでした。そのため「不死身の鬼美濃」と呼ばれていました。しかし、まともに戦えば負けるのが分かり切った戦で、予想通りに武田軍が崩壊。殿を務めた馬場信春は、武田勝頼が撤退したのを見届けた後、織田軍に突撃して果てました。馬場信春の子・昌房が牧之島城の城代となりました。
1582年3月、武田家が滅びました。
織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼしました。この時、馬場昌房がどこでどうなったのかがわかっていません。武田家滅亡後、牧之島城が誰の属城になったかわかりません。安曇郡に属するのであれば木曽義昌、海津城に属するのであれば森長可です。
1582年6月、本能寺の変により、信濃が空白地帯となりました。
武田家が滅ぼされてからわずか3ヶ月で、今度は織田信長が謀叛により斃れました。この影響は凄まじく、武田旧領に居た織田家臣達は、命からがら元の本拠へ逃れました。こうして現れた広大な空白地を巡って、徳川・北条・上杉氏が切り取り合戦をしました。北信濃ははじめ、上杉景勝が擁する小笠原洞雪斎が、旧臣達を集めて支配しました。小笠原洞雪斎は武田信玄により信濃を追われた小笠原長時の弟です。しかし、軍事基盤が無かったため上杉家臣が専横し、旧臣達の心が離れて行きました。
この後に深志城を奪ったのが、小笠原貞慶(小笠原長時の子)です。小笠原貞慶は徳川家康の後ろ盾を得ており、叔父・洞雪斎から深志城を奪いました。その後、善光寺平を境に上杉景勝と争っています。牧之島城は上杉景勝が支配し、家臣の芋川親正を城主としました。小笠原貞慶が森城を対上杉の前線基地としたのは、このためだったんですね!
1598年、上杉景勝が会津へ移されてからも城として使用されました。
牧之島城は海津城の属城とされ、以後も城として使用されました。海津城主は田丸直昌→森忠政→松平忠輝と移り変わっています。
1616年、廃城となりました。
松平忠輝の改易により、と書かれている事が多いのですが・・・この時期だと、前年に一国一城令が出されています。廃城の理由はこちらのような気がしますが、どうなんでしょうか?
所在地:長野市信州新町牧野島
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