2015/05/05
森城/長野県大町市
森城は木崎湖の西岸にありました。訪問日は2013年7月31日です。

▲図 拡大表示
森城は木崎湖の西岸の千国街道沿いにありました。千国街道は別名「塩の道」とも呼ばれ、越後から海産物を運ぶ重要な街道でした。往時は図の通り半島状になっていましたが、現在では陸続きとなっています。

▲主郭の堀切と虎口
かなり開発されたため、ハッキリ分かる堀切は主郭の南にあるこの1本だけかもしれません。主郭より南側は住宅地となっているため、確認出来ていません。もしかしたら残ってるかもしれませんが・・・

▲土塁
主郭に上がって堀切側を見ると、セオリー通り土塁があります。あんまり高くないですが。でも、崩されずにちゃんと残っているのが嬉しいです


▲主郭にある仁科神社
主郭の広場には仁科神社が祀られています。この神社は明治時代に建てられたものだそうです。この奥には仁科氏が祖先とされる阿部氏を祀った阿部神社があるそうです。見てませんがorz...
◆歴史◆
仁科氏により築かれました。
仁科氏はたいへん古くからある氏族で、古代から当地に根付いていたそうです。松本のすぐ北西から越後との国境に至るまでの安曇郡一帯を支配していました。ただし、その出自は諸説あり定かではありません。
森城は年代は不明ですが、木崎湖の西岸の舌状台地に築かれました。南北を結ぶ千国街道を押さえるには都合の良い立地でした。その西を流れている農具川をせき止めて堀代わりにしたので、半島のようになりました。
仁科氏の歴史をかいつまんで書くと・・・
源平合戦の時には木曽義仲に従っていました。
『平家物語』や『源平盛衰記』などに、源氏方として仁科二郎が登場します。木曽義仲が滅ぼされた後は、源頼朝に従ったようです。
1219年、仁科盛遠の二子が西面衆として後鳥羽上皇に召抱えられました。
仁科盛遠が二子を連れて熊野詣をした際、偶然後鳥羽上皇に遭遇したそうです。この時に気に入られた仁科氏は、上皇直々に役職や所領を与えられました。しかし、執権・北条義時は御家人として不心得だとし、仁科盛遠の所領を没収しました。後鳥羽上皇は仁科氏に所領を返すよう命じましたが、北条義時は応じませんでした。これが1221年に起きた承久の乱の遠因になったとされています。乱の後、仁科氏の所領は太神宮領(伊勢神宮の荘園)となりました。表向きは領主ではなくなったものの、うまく宮方に匿われたのでしょうか。
1333年、鎌倉幕府が滅亡しました。
信濃守護でもあった北条氏が滅んだため、このタイミングで所領を取り戻したと思われます。室町時代初期の南北朝時代は、仁科氏は南朝方として戦いました。信濃守護には小笠原氏が任命されましたが、支配地域はかなり限定されていました。
1353年、守護の小笠原長基に攻められました。
香坂美作守と仁科右馬祐が小笠原長基に攻められました。足利尊氏がこの時の戦功をねぎらう書状が残っています。
1400年、大塔合戦で反守護勢力の中心として戦いました。
前年に信濃守護に就任した小笠原長秀は、善光寺で北信濃の国人達に面会しました。しかし、この時の態度に憤慨した国人達は、守護排斥の兵を挙げました。国人側勢力は仁科氏や村上氏、高梨氏などで、ほぼオール北信濃でした。この戦いで国人側が大勝し、小笠原長秀は都へ逃げ帰り、守護職を剥奪されました。
1440年、結城合戦の際に小笠原軍に従いませんでした。
この頃までにはかなりの国人達が守護・小笠原政康に従っていました。小笠原政康は信濃の軍勢を率いましたが、この時大井氏と仁科氏が参戦しませんでした。大井氏は鎌倉公方の味方をした(つまり小笠原軍と敵対した)からでしたが・・・仁科氏は領内で大洪水に見舞われたためだったとされています。小笠原氏がどうやって国人衆を手懐けたのかはわかりません

1480年、小笠原長朝に攻められました。
仁科持盛が没すると、小笠原長朝に攻められました。やっぱり仁科氏は小笠原氏に反抗的だったのでしょうか?
1481年、仁科盛直が小笠原軍に勝利しました。
諏訪大祝家の諏訪継満が小笠原長朝を攻めると、仁科盛直は諏訪方として戦いました。この戦いに勝った後、小笠原氏の娘を迎えて和睦したとされます。仁科盛直の子・盛国は、自らの子を安曇郡や筑摩郡各地に養子に送り、支配基盤を固めました。
1548年、塩尻峠の戦いで小笠原軍から離脱しました。
上田原の戦いで武田晴信が村上義清に大敗すると、小笠原長時が諏訪に攻め込みました。この時、仁科道外(盛能)は連合軍に参加していました。連合軍が更に諏訪上社を攻めようとており、武田軍は撤退の一歩手前という状況になりました。このタイミングで、仁科道外は連合軍から離脱して帰ってしまいました。これは仁科道外(盛能)が諏訪下社の領有を望んだものの、却下されたためとされます。仁科軍が離脱した後、小笠原連合軍は塩尻峠で武田軍に大敗を喫しました。
1550年頃、仁科氏は武田氏に降りました。
仁科上野介が武田家臣・駒井高白斎を通じて臣従したとされます。この辺りはよくわかっていないのですが・・・臣従した筈なのですが、道外の弟達は武田軍に抵抗し、1552~57年の間に自害しています。
1561年、仁科盛政が粛清されたとされます。
道外の孫・仁科盛政が川中島の戦で上杉政虎(謙信)に通じたとして粛清されました。しかし、史料によりその年代および末路が食い違っており、どうなったのかは不明です。それは1567年に仁科盛政が武田信玄に起請文を出しているからです。この起請文の真贋もわかりませんが・・・仁科盛政はどうやら生きていたようで、1584年に書かれた上杉景勝の朱印状が残っています。その直系の子孫は上杉家臣として米沢藩士となっています。
1571年、仁科家の家督を武田信玄の子が継ぎました。
仁科盛政の起請文は多分本物なのだと思います。ということは、武田家中ではかなり疑われながら仕えていたということでしょうか。粛清された後、10年間も安曇郡の領主が不在だったなんて考えにくいです。1571年に武田信玄の五男・晴清が仁科氏の名跡を継ぎ、仁科盛信と改名しました。この時までには仁科盛政は追放、または逃亡していたのでしょうね。
1582年、小笠原貞慶の城となりました。
武田勝頼が織田信長に滅ぼされた後、本能寺の変で織田信長も斃れました。その後の信濃はかなり混乱しましたが、最終的に小笠原貞慶が深志城を得ました。信濃に復帰した小笠原貞慶は、上杉景勝と北信濃の地を賭けて争いました。森城はその戦いの拠点として維持されたそうです。廃城時期は不明です。
尚、乱世を生き延びた仁科氏の一族は小笠原貞慶に仕えましたが・・・上杉景勝に内通していると嫌疑をかけられ、相次いで謀殺されました。
所在地:長野県大町市平
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