2015/05/05
北熊井城/長野県塩尻市
北熊井城は田んぼの真ん中にあります。訪問日は2013年8月1日です。

▲遠景
北熊井城は遠くからでもよく見えます。田んぼの真ん中にポツリとありますので。ただ、あまりによく見えるので、それがお城だとは気付かないかも。知らない人が見たら、工事中の高架の道が放置されたように見えるかもしれません。

▲標柱と説明板
道なりに近づくと、主郭の真下にコレがあります。お城ごとに標柱なり石碑に個性があっていいですね^^その脇に綺麗なイラスト入りの説明板があります。

▲図 拡大表示
そのイラストだけパクりました。田んぼの真ん中で郭が真っ直ぐ連なっています。元々は細長い丘があったのでしょうか?小笠原氏なら何もない所にこれ位の土盛りならやってのけそうですが。

▲堀切
郭と郭の間はこんな感じになっています。平地でこんな堀切が見られるなんてヽ(´∀`)ノ

▲主郭内部
高さ10m程の主郭に登ってみるとこんな感じです。一面クズ野原ですw流石に真夏だし、特に構造物らしき物も見当たらないので藪の中には入っていません。こうやって見ると、居住空間というより陣城っぽい感じがします。
◆歴史◆
1540年頃築かれました。
築城者はハッキリしませんが、小笠原長時、または武田晴信とされています。築城時期も明確ではないのですが、小笠原軍と武田軍との攻防によると考えるのが自然です。そんな感じなので、周辺で起きた事を時系列で並べてみました。
1540年2月、村上義清が甲斐に攻め入りました。
1540年4月、武田軍の板垣信方が佐久郡に侵攻しました。
1540年11月、武田信虎の娘が諏訪頼重に嫁ぎました。
1541年5月、武田信虎が村上義清、諏訪頼重とともに小県郡の海野氏を攻めました。
1541年6月、武田晴信が父・信虎を駿河へ追放しました。この直後、小笠原・村上・諏訪の連合軍が甲斐国境へ侵攻しました。
1542年7月、武田晴信は諏訪へ侵攻し、諏訪頼重を自害させて諏訪氏を滅ぼしました。
武田氏は信虎の代に甲斐を統一し、佐久方面に侵攻していました。ここで利害関係が生じた村上氏や諏訪氏との対立が生じます。信虎は始めは彼らと戦いましたが、1541年に和睦し三家合同で佐久を攻めて山分けしています。そんな信虎を追放した武田晴信が最初に攻めたのが諏訪でした。これは、同盟を結んでいた諏訪氏が甲斐へ攻めて来た報復だと思います。
1543年、武田軍が佐久郡を再攻略しました。
1545年、武田軍が高遠城など伊那郡北部を制圧しました。
1548年3月、小県郡に侵攻した武田軍が、上田原の戦いで村上軍に大敗を喫しました。この戦いで、武田軍ではエースの板垣信方や猛将・甘利虎泰が討死しました。村上軍は佐久郡に侵攻しましたが、武田軍は抵抗出来ませんでした。そのため西諏訪や高遠、伊那で謀叛が起き、小笠原軍が甲斐へ侵攻しました。
1548年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻し、諏訪下社を占領しました。
1548年7月、武田軍は塩尻峠で小笠原・村上連合軍に大勝しました。
武田軍が上田原で大敗すると、それまで切り取った地域が離反しました。しかし、塩尻峠で信濃連合軍に大勝すると、それまでの劣勢を一気に挽回しました。この戦いの後、武田軍は信濃侵攻の拠点として村井城を築きました。村井城は、塩尻一帯を支配していた村井氏の本拠だった小屋館があった所です。一連の動きを見ていると、個人的には北熊井城が築かれたのはこの時じゃないかと思います。
1549年8月、武田軍が佐久郡を再び攻略しました。
1550年7月、武田軍が松本平に出兵し、小笠原氏の本拠・林城が自落しました。武田晴信は深志城を改修し、信濃攻略の新たな拠点としました。
武田軍は上田平での敗戦で一時身動きが取れなくなりましたが、翌年には侵攻を再開しました。そして、村上義清に攻略された佐久郡を取り戻しています。更に、小笠原長時の本拠地であった松本平へ侵攻して制圧しました。小笠原氏は塩尻峠で大敗した後の軍備の再建がうまく出来なかったんですね。松本平を手に入れた武田軍は、深志城を大改修して周辺勢力の掃討を始めます。
1550年9月、武田軍が村上義清の戸石城を攻めましたが、大敗しました。
1550年10月、小笠原長時が松本平の奪回を試みましたが、村上軍の撤退により失敗しました。
1551年、武田軍は真田幸綱(幸隆)の調略により、戸石城を1日で攻略しました。
1552年、武田軍が安曇郡一帯を平定し、小笠原長時は越後へ逃れました。
これから小笠原長時を攻略するゾ!という事で、武田軍は北熊井城を改修しました。何しろ相手は信濃守護ですからね。長期戦になることを覚悟して立派な城にしたのでしょう。しかし、いざ蓋を開けてみると、小笠原軍はあっけなく瓦解してしまいました・・・
1553年4月9日、武田軍は村上義清の本拠・葛尾城を攻略しました。
1553年4月22日、村上義清が葛尾城を奪回しました。
1553年8月、武田軍が再び葛尾城を攻め、村上義清は越後へ逃れました。
1554年、武田軍が伊那・鈴岡城を攻略し、伊那郡も制圧しました。
1555年、武田軍が木曽義昌を降しました。
小笠原長時と村上義清をほぼ同時期に追いやり、信濃の中心部を平定しました。その後は南信濃へ矛先を転じており、まだまだ軍事拠点としての価値あったでしょう。しかし、南信濃を手中に収めた後、勢力圏のド真ん中の北熊井城は役割を終えたと思います。
所在地:長野県塩尻市片立北熊井
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