2015/05/02
小岩嶽城/長野県安曇野市
小岩嶽(こいわたけ)城跡には模擬城門があります。訪問日は2008年8月17日です。

▲復元城門
小岩嶽城を訪ねたのは、もうかなり昔のこととなります。当時はまだ、何かしら建物がある所をドライブついでで巡っていました。この時に巡ったのが小諸城、上田城、松代城、飯山城、青柳城、小岩嶽城と高遠城です。青柳城と小岩嶽城には似たような城門があり、惹かれたんですね。松本城はそれまでに何度か訪ねているので、この時には立ち寄っていません。

▲説明板 拡大表示
どこにあったのかはもうとっくに忘却の彼方ですが・・・城門以外で撮ったのがこの1枚だけです。きっと、この奥はただの山だろう、って当時の私は思ったのでしょうね。まぁ、訪問したのが真夏なので、今訪ねても登る季節は選ぶと思います

◆歴史◆
1522年、仁科盛国により築かれました。
築城した背景がよくわかりません。参考にさせて頂いたサイトでは、「小笠原氏に備えて」という説が多かったです。実際、仁科氏は府中小笠原氏と何度も戦っていました。
室町時代初頭の南北朝時代には仁科氏が南朝方、小笠原氏が北朝方でした。
1400年にあった大塔合戦では、村上氏と仁科氏が中心となり小笠原軍に大勝しています。1440年の結城合戦で小笠原軍に従わなかったのは仁科氏と大井氏だけでした。結城氏を支持していた大井氏とは違い、仁科氏は領内の洪水がその理由のようですが・・・。
1480年、仁科持盛が没すると、小笠原長朝に攻められ敗れています。
1481年、諏訪氏や香坂氏とともに仁科盛直が小笠原長朝を攻めています。
1489年、将軍・足利義尚の六角氏討伐軍に仁科盛直も参加しています。
これらを見ていると、1481年の戦の後、将軍の仲介により優位に和議を結んだと思われます。小笠原氏はまだこの頃は府中・松尾・鈴岡の三家で内輪揉めをしていた頃ですからね。
地図を見ると、小岩嶽城は千国街道の西を南北に通る道沿いにあるのが気になります。どう考えてもこの道の通行を監視するのが目的だったように思われます。仁科氏は現在の大町市を本拠にしていましたからね。千国街道は等々力城、その裏街道を小岩嶽城で抑えるといった感じでしょうか。仁科盛国の三男・小岩盛親が城主を務めました。
仁科盛国は、嫡男・盛能に小笠原長時の娘を迎えることで和議を結んだそうです。仁科盛国も盛能も「生没年不明」なので時期がわかりづらいのですが・・・小笠原長時の生まれた年が1514年です。1522年前後に小笠原氏と婚姻するとなると、小笠原長時の父・長棟の娘と考えるのが自然です。仁科盛能の弟が城主となる位ですから、盛能は既に立派な青年だったことでしょう。ちなみに、藤沢頼親が小笠原長時の娘を嫁に迎えたのが1545年頃です。
1552年、武田軍に攻められ落城しました。
3ヶ月にわたる篭城戦の末に落城し、城主・小岩盛親は自害しました。小岩嶽城は仁科氏の一族である古厩氏の領内にあり、その当主・古厩盛晴も自害しました。古厩盛晴の子・盛兼は武田軍に降伏しています。
1561年、主家の仁科盛政が武田信玄に成敗されたとされます。
仁科盛政が上杉政虎(後の謙信)に内通したため成敗されたとされます。ただし、1567年に仁科盛政が武田信玄に出したとされる起請文が現存しています。この年代の仁科氏の動向は、分からないことが多過ぎます。
1571年、武田信玄の五男・晴清が家督を継ぎ、仁科盛信となりました。
1582年3月、武田勝頼が織田信長により滅ぼされました。
この時の戦功として、木曽義昌に安曇・筑摩の二郡が与えられています。仁科本家は高遠城で仁科盛信が自害して滅んでいます。当地を支配していた古厩盛勝は、おそらく木曽義昌の配下になったと思われます。
1582年6月、本能寺の変により織田信長が自害し、信濃が混乱に陥りました。
まだ領主となって日が浅い織田家臣は、各地で旧領奪還を目指す武田旧臣に攻められました。彼らは本拠地へと撤退したため、信濃は空白地帯となりました。この広大な空白地帯を巡って、徳川家康、北条氏直と上杉景勝らが争奪戦を繰り広げました。
はじめに木曽義昌の松本を、上杉景勝を後ろ盾とした小笠原洞雪斎に奪われました。洞雪斎は小笠原長時の弟です。洞雪斎は小笠原旧臣により擁立されており、古厩盛勝も従ったとみられます。
その後、徳川家康を後ろ盾とした小笠原長時の子・貞慶が深志城を攻めました。洞雪斎が深志城を奪うと、小笠原旧臣ではない梶田氏と八代(屋代?)氏が専横したそうです。彼らの素性はよくわかっていませんが、おそらく上杉家臣と思われます。これを快く思わなかった小笠原旧臣達が、小笠原貞慶に鞍替えし、深志城を乗っ取りました。
1583年、古厩盛勝が小笠原貞慶に謀殺され、廃城になったとみられます。
古厩盛勝が上杉景勝に内通しているとされ、松本城で謀殺されました。小笠原貞慶は家柄を鼻に掛けて尊大だったと言われており、嫌われたのでしょうか。それとも、その後も続く上杉景勝との争いの真っ只中で疑心暗鬼に囚われたのでしょうか。この時に古厩一族が滅ぼされたため、古厩城と一緒に廃城になったと見られます。
所在地:長野県安曇野市穂高有明
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