2015/04/11
真田本城/長野県上田市
真田本城は真田氏館から東にある山城です。訪問日は2013年7月31日です。
▲縄張図 拡大表示
真田本城は真田氏館の北東にある山城です。この図は主郭の真正面にある説明板にあったものをパクっています。

▲城址入口
城跡の脇まで舗装道があり、車で楽々登ることが出来ます。すぐ目の前に駐車場があり、そこからお城の方を見たのが上の写真です。ただ、こうやって見ると、案内が無いと城跡だとは気付かない感じがします。

▲段になっています
入口から進むと、すぐに段になった地形が見えます。真田氏のお城なので、もっとアスレチックみたいなのを期待していたのですが・・・これはこれできっと深~~~い思慮があっての事?と思いながら見ていました。

▲主郭
そう思いながら登ると、あっけなく主郭に辿り着きました。・・・あれ?主郭?って感じです。確かにココだけは厳重な感じがして、土塁を回りこむような道が付けられています。

▲説明板と標柱 拡大表示
モニュメントの類は大好物なので、勿論撮りました^-^

▲主郭
土塁を登ると、今度はなだらかな下り坂となっていました。ここも大して加工された感じがしませんでした。
しかし、今、今ですがw、案内図を見て素朴な疑問が浮かびました。城跡へは南側の道から上がったのに、主郭が一番南で三郭が北に描かれている・・・




◆歴史◆
真田氏が本拠としていました。
築城年代は不明です。
鎌倉時代からココがお城として使われていた形跡があるそうです。真田氏は西にある館を本拠とし、ココを詰城にしていました。館と一体なので、以後書いてある事は「真田氏館」と全く同じです。
真田氏の出自はよくわかっていませんが、最初に思い浮かぶのが真田幸隆です。真田幸隆の前半生はよくわかっていません

真田頼昌の子という説、海野棟綱の子という説などがあるそうですが、確定していません。通称である「源太左衛門」は、海野氏の当主の名乗りだそうです。真田幸隆という名前は晩年の改名だそうで、それまでは真田幸綱と名乗っていました。(混乱するので以後の表記は真田幸隆とします)さらに、真田幸隆の嫡男・真田信綱にも「綱」の字があります。海野氏説が有力なのはこのためでしょうか。
真田幸隆が歴史に登場するのは、1541年5月にあった海野平の戦の後です。海野平の戦は、武田信虎、村上義清、諏訪頼重が海野棟綱を攻めた戦です。この戦によって海野棟綱は所領を失い、上野国の長野業政のもとに逃れました。真田幸隆はこの時、海野棟綱と一緒に長野業政のもとに来ています。
翌月、甲斐でクーデターがあり、武田信虎が駿河に追放されました。これを好機と捉え、海野棟綱は上杉憲政に旧領回復のため信濃への出兵を要請しました。これに応え、上杉軍は長野業政を総大将として信濃に攻め込みました。
佐久郡の大井氏らは戦わずして降伏し、ここまでは順調でした。しかし、小県郡に攻め入る前に長野業政が諏訪頼重と和睦し、兵を退いてしまいました。そのため海野棟綱は旧領を回復することが出来ませんでした。真田幸隆はこの時に関東管領・上杉憲政を見限ったという説があります。
真田幸隆がいつからどのような形で武田晴信に仕えたのかも謎のままとなっています。1545年、武田軍に抵抗していた望月盛時を説き伏せたのが一番古い記録のようです。その後、1548年に村上義清と戦った上田原の戦では、板垣信方の脇備として参戦しています。1550年の戸石城攻めは、真田幸隆が武田晴信に要請して起きた戦だそうです。この戦いは武田軍が惨敗しましたが

1551年、真田幸隆が戸石城番となりました。
真田幸隆の調略により戸石城が陥落しました。戸石城は真田荘のすぐ脇にあり、元々は真田氏が築いたお城です。真田幸隆が戸石城攻めを懇願したのは、ここが真田氏の旧領だったからでしょうね。戸石城が真田氏の城になったので、この頃にはココに館を築いたことでしょう。以後、真田昌幸が上田城を築くまでの間、この館が真田氏の本拠となりました。
1553年、武田軍が村上義清の本拠・葛尾城を陥落させました。
真田幸隆の調略により、村上一族である屋代氏や雨宮氏、塩崎氏が武田方に寝返りました。そのため、南北から挟み撃ちとなる葛尾城は自落し、難敵・村上義清は越後へ逃れました。
1575年、長篠の戦いで真田信綱が討死しました。
同時に真田幸隆の次男・真田昌輝も討死しました。そのため、武藤家の養子になっていた三男・武藤喜兵衛が真田家に戻って家督を継ぎました。これが真田昌幸です。
1582年3月、武田氏が滅びました。
織田信長が武田勝頼を滅ぼしました。真田昌幸は武田勝頼に西上野の要害・岩櫃城に篭るよう勧めたそうですが・・・武田勝頼は小山田信茂の勧めにより、小山田氏の本拠・岩殿城へ逃れました。そこで裏切られ、嫡男・武田信勝とともに天目山で自害しました。武田家滅亡後、真田昌幸は織田信長に降伏し、上田一帯を安堵されました。
1582年6月、本能寺の変により、天正壬午の乱が勃発しました。
新領主である織田家臣達は、旧領回復を狙う武田旧臣に追われて本領へ逃れました。そのため、信濃と甲斐は空白地帯となり、徳川・上杉・北条氏が争奪戦を繰り広げました。この時に真田昌幸は上田周辺の盟主となり、武田旧臣を集めて勢力を拡大しました。滝川一益が神流川の戦いで北条軍に敗れると、空白地となった沼田城の奪回に成功しました。
ここからの真田昌幸は、権謀術数の限りを尽くします。上杉景勝が川中島に進出するとその家臣となりましたが、2週間後には北条氏直に寝返りました。北条軍と上杉軍は川中島で対峙しましたが、戦うことなくお互いに兵を退きました。そしてこの2ヶ月後、今度は徳川家康の家臣となりました。甲斐の若神子で徳川軍と北条軍が戦いましたが、やがて和睦しました。和睦の条件で沼田城が北条方へ割譲されることになりました。しばらくはこれを無視し続けていました。
1583年、真田昌幸が上田城を築きました。
千曲川流域を支配する拠点として、真田昌幸は上田城を築きました。この時に合わせて城下町も整備されています。真田郷の人々を上田に移したのでしょうね。以後、真田昌幸は上田城を本拠地としました。
所在地:長野県上田市真田町長
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