2015/04/09
外山城/長野県東御市
戸山城は「とやまじょう」と読みます。訪問日は2013年7月31日です。

▲駐車場と説明板
外山城は山城ですが、車で行けます!駐車場脇に説明板があり、そこから城跡まですぐです。

▲こっち?
ただ、矢印等の案内がある訳ではありません。ここは少しばかり城キチとしての嗅覚が試され・・・てるのかもしれません。とりあえず本能の赴くがままに歩いてみました。

▲土塁!
すると、やっぱりというか、ありましたw尾根の先の方へ下る感じで進んだら、土塁に囲まれた空間がヽ(´∀`)ノ

▲標柱
しかも、そのすぐ脇にこの標柱。マチガイありませんね!

▲堀切
その先には堀切があって尾根先と分断!しているように見えました。普段ならココでUターンしてしまうかもしれません。でも、土の壁の先が何だか怪しい!・・・と小人さんが耳元で囁いたんです。

▲堀切の先から振り返る
じゃぁ、この土盛りまでだよ。ってことで進んで堀切を上から見下ろしました。はじめはこの土盛りが物見台なのかと思っていましたが・・・

▲まだまだ先へ
なんだかまだまだ先の方に通じてるように見えました。ますます怪しい!

▲先端部
こうなるともうとことん進むだけです。そうすると、いかにも見晴らしの良さそうな場所に出ました。その先端が高台になっています。

▲眺め
そこからは、西~北~東をとてもよく見渡すことが出来ました。これでこそ狼煙台?山城の最大の利点である見晴らしの良さは満点でした♪
◆歴史◆
15世紀後半から16世紀前半に築かれたとされます。
築城者は不明です。説としては依田氏や村上氏の名が挙がっていますが・・・地理的には西~北~東までよく見渡せるから色んな説が出るのだと思います。
村上氏が北の真正面にある禰津氏を攻めるため築いたのか。依田氏が南から支配地域を拡大した際に築いたのか。はたまた、禰津氏が南北両方から敵を察知するために築いたのか。すぐ東の楽巌寺城辺りは望月氏の支配地域なので、望月氏の城なのかも・・・。どうとでも想像できますね>_<;
周囲の出来事を以下に時系列で並べてみました。
村上政清が東に勢力を拡大しました
・1467年、村上政清が海野氏領に侵攻し、塩田荘がを奪いました。
・1468年、村上政清が再び海野氏を攻め、所領の大半を奪いました(海野大乱)村上氏が海野氏、更に禰津氏の領地を侵略しました。それでもまだ、滋野一族は村上氏には降らなかったようです。禰津氏が村上氏に備えて城を築くとすればこの頃でしょうか。
・1484年、村上政清が大井宗家を滅ぼしました。村上氏の勢力が小県郡を通り過ぎて佐久にまで及ぶようになりました。この頃に村上氏に従わずに抵抗するのは無理なような気がします。
ここから暫くの間はよくわかっていません。
武田氏が侵出してきました
・1541年、武田信虎が村上義清、諏訪頼重とともに佐久・小県郡に侵攻しました。海野平の戦で敗れた海野氏は、関東管領・上杉憲政のもとに逃れました。
・1542年、武田晴信が諏訪頼重を滅ぼしました。諏訪頼重に所領を奪われていた小県郡の領主が各地で城を奪還しました。
・1543年、武田晴信が大井氏、望月氏を降しました。依田信守は武田軍に降伏したと思われます。武田軍の先鋒として村上軍に備え城を築くならこの頃ですね。
・1548年、武田晴信が上田平の戦で村上義清にコテンパンに敗れました。この時期に村上軍が佐久に侵攻しています。
・1550年、武田晴信が村上義清の砥石城を攻めてコテンパンに敗れました。しかし、村上軍には武田軍を追撃する余力は無かったようです。
・1553年、武田晴信が村上義清に勝利し、村上義清は越後へ逃れました。頼られた長尾政虎(上杉謙信)が信濃に攻めてくるキッカケとなりました。
ここから暫くの間は武田氏領です
天正壬午の乱
・1582年3月、織田信長が武田勝頼を滅ぼしました。上田一帯は織田軍に降伏した真田昌幸に安堵されました。
・1582年6月、本能寺の変で織田信長が自害し、信濃・甲斐は大混乱に陥りました。身の危険を察した新領主の織田家臣が信濃・甲斐から逃れました。そのため、広大な空白地を巡って徳川・北条・上杉氏が争いました。真田昌幸を始め、小県郡や佐久郡では北条氏に従う者が優勢でした。しかし、徳川家康を後ろ盾にした依田信蕃が次第に勢力を拡大しました。この時に依田信蕃の弟・信幸が一時、外山城を守っていたそうです。その直後ですが、依田兄弟は岩尾城を攻めた際に討死しました。
その後の外山城の様子はわかりません

所在地:長野県東御市羽毛山
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