2015/04/07
楽巌寺城/長野県小諸市
楽巌寺城は別名・布引城とも呼ばれ、千曲川の南にある断崖上にありました。訪問日は2013年7月31日です。

▲山道①
楽巌寺城へは枡形城後→愛宕城跡の後だったので、南東から行きました。Google Mapで見ると、舗装された道が載っています。Uターン大嫌いな鉄砲弾のような正確なので、とにかく前進あるのみですwこの道、確かに舗装されてはいるのですが・・・・

▲山道②
大きな道から進入した最初の印象は農道?でした。まぁ、でも道は合ってるしいいか、という感じで進みました。しかし、進めば進む程だんだん怪しい気配が・・・小さな車がやっと1台通れるような狭い道です。場所によっては道の両側から草木が迫り、キーキー音を立てながら進みました。レンタカーなので傷が気になりましたが、特に傷は付きませんでした。

▲城域に到達!
そんなちょいヤバな山道を進んで行くと、十字路が現れました。この十字路、なんだか土の壁を突っ切ってる!そう感じたので、迷わず車を停めて付近を散策しました。城キチの勘おそるべしw

▲堀跡
その土塁の南側は窪んでいて、堀跡だったことがはっきり分かります。堀と土塁がセットになっていたので、城域だと確信した瞬間でもあります^-^道の東側は窪んでいるだけですが、西側は少し水がたまっており、水堀になっています。地図でも池っぽく描かれているのがソレです。以後、地図に引いたオレンジの線に沿って歩いています。

▲上の堀跡の反対側
上の堀跡の反対側に回ってみると、土塁の手前には堀跡がありません。どうやらこちら側が城内ということのようです。

▲道沿いに土塁が続きます
しかし、城内側はすぐに道が左に折れ、その右(北)は急斜面が落ちています。不思議な構造ですねw狭い通路に誘導してここで敵を迎え撃つ意図があったのかもしれません。

▲堀切!
その道を更に進んで行くと、道端に堀切がヽ(´∀`)ノ写真の通りで、本当に道端にあるんですw

▲堀切(反対側から)
その堀切に進入しましたが、ちゃんとした遺構のようです。後世に掘り起こしたものではなさそうでした。バッチリな遺構を見ることが出来、お腹一杯になったので次のお城へ飛んで行きました。この奥にもう1つお城があったと知ったのは、ついさっきのことですwww
◆歴史◆
築城年は不明ですが、楽巌寺雅方により築かれたとされます。
楽巌寺雅方は元は釈尊寺の末寺である楽巌寺の僧侶だったそうです。僧侶なのですが、武勇に優れていたそうで・・・比叡山と同じ天台宗なので、僧兵がこの地方にもあったってことでしょうか。楽巌寺雅方は望月氏と親交があったそうです。
1543年、武田晴信が佐久に侵攻しました。
武田軍が佐久に侵攻し、名族・大井氏が軍門に降りました。その大井氏を支援していた望月氏も攻められ、当主・望月盛昌が自害しています。その望月氏の一族である望月盛時は、ここ楽巌寺城に篭って武田軍に抵抗を続けました。
1545年、望月盛時が武田家臣となりました。
望月氏と同じ滋野一族の真田幸隆の説得により、望月盛時は武田氏に降伏しました。しかし、楽巌寺雅方は武田家臣とはならず、武田軍への抵抗を続けました。
1548年、武田軍に攻められ落城しました。
この年に武田晴信が村上義清を攻めているので、その前哨戦と思われます。この戦いで支城ともども落城し、楽巌寺雅方は村上義清のもとへ逃れました。以後、村上義清軍の一角として武田軍と戦いましたが・・・1553年に村上義清が越後に逃れたため、楽巌寺雅方は武田軍に降伏しました。
所在地:長野県小諸市大久保
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