2015/04/04
長窪城/長野県長和町
長窪城には連続堀切があります!訪問日は2013年7月30日のラストです。

▲登城口
Google Mapには道が載ってないのですが・・・国道254号から脇に入る林道があり、ほぼ直角に左へ曲がる所が登城口です。それまで何も無いただの林道ですから、ココに来ればすぐにわかると思います^-^登城口の所には数台は停められそうな駐車スペースがあります。

▲案内図 拡大表示
登城口にある説明板には、このような案内図が載っています。北から南側へ進むので、案内図は南北が逆になっています。こうして見ると、細尾根を堀切でぶった切っている構造がわかりやすいですね


▲城址碑
その登城口のすぐ脇には、こんなに立派な城址碑があります!ツルツルピカピカなので、時間帯によっては綺麗に写りませんけどw

▲1つめの堀切
さて、細尾根の登城路を進むと、不自然にボコっとなった所がいくつもあります。最初の堀切ですヽ(´∀`)ノちょっと引いたアングルから撮りましたが、奥の方にも2つ程堀切が見えています


▲2つめの堀切

▲3つめの堀切

▲4つめの堀切
一番大きな堀切は、二郭手前にあるものです。ここは深さ、高低差ともに立派です


▲二郭から見上げる主郭
最後の堀切を越えて進むと、削平された広場に出ます。ここが二郭で、その奥の高まりが主郭です。主郭上には屋根つきの展望台が見えます。

▲主郭からの眺め
主郭からは長門の街がよく見えます。街を一望していると、何だかお殿様になった気分になります。いつもこんな錯覚ばかりして夢見てる訳ではないですが


▲主郭にある城址碑
そして!主郭にも城址碑があります。ここもツルツルピカピカなので、コツを押えないと綺麗に撮れません。登城口といい、主郭といい、とても高そうな石を使っていますね!
◆歴史◆
室町時代に築かれたと考えられています。
正確な築城年代は不明です。築城者は依田氏か大井氏と考えられています。依田氏が当地に入ったのが1483年です。それまでは滋野一族の芦田氏が芦田城に拠っていました。村上政清が佐久郡に侵攻し、海野氏や大井氏宗家を駆逐しました。芦田氏はこの時に滅ぼされ、芦田城に依田氏が入りました。地理的には依田城と芦田城の間にあるのですが・・・主に知られている城主は長窪大井氏です。そのため、大井氏が望月氏を降した時に築かれたとも考えられています。
1543年、武田軍により攻め落とされました。
武田晴信が佐久郡へ侵攻し、大井城を攻め落としました。そのため、大井貞隆は長窪城へ移って抵抗を続けました。しかし、重臣の相木氏と依田氏の裏切りにより城は陥落。大井貞隆は武田軍に捕らえられ、甲府へ送られました。その後どうなったのかが不明なのですが・・・程なく大井貞隆の弟で養子の大井貞清が家督を継ぎました。そういう事だったのでしょう。大井貞清は内山城で武田軍への抵抗を続けましたが、1547年に降伏しています。その後は武田晴信に仕えており、1575年の長篠の戦で討死しています。
1583年、廃城になりました。
大井氏を降した後は武田軍の信濃侵攻の前線基地となっていました。1582年に武田勝頼が滅ぼされた後、上田一帯は真田昌幸が治めました。その翌年、真田昌幸が上田城を築くと、長窪城は廃城となりました。
所在地:長野県小県郡長和町古町
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