2013/03/03
小山田城/東京都町田市
3月2日の3箇所目は小山田城跡。・・・iPhoneに頼りながら辿り着きました

お寺が居館の跡で、その背後が城跡。というのを意識して撮りました。

▲居館跡の大泉寺の背後が城跡
このような造りを殿谷戸(とのやと)形式というんだそうです。関東武士の館では一般的なんだとか。

▲本堂の左側に城址碑と小山田氏懸賞碑がある
そして、本堂の左側には城址碑が

来る前に参考にしたサイトでは、ここの城跡を見るにはお寺の許可が必要らしい。さあ、お寺の方に会おうかな・・・と思いましたが、盛大に読経中。さすがに居ないかなー・・・なんて諦め掛けましたが、お寺の方いらっしゃいました。
"裏の城跡を見させて下さい"
そうお願いした時、最初は何となく否定的な感じでした。城跡に火をつけられる騒ぎがあったとかで。それ以来、警察も見回りに来るようになったそうです。しかも、この方は住職ではないので、一存ではきめかねる、とも。最終的には快く許可を頂くことができました。
無断で入山した場合、警察沙汰になっても文句は言えませんね


▲登城路の入口には無断入山禁止の立札
許可を頂いて見る城跡って、何だか特別な気分です。誰も居ない城跡。人様の土地なのに、なんだか殿様気分ですw

▲二重の堀切
城跡の道はよく手入れされていて、とても歩きやすかったです。地面も何だかフカフカで。ウッドチップを敷き詰めた道を歩いてるような感じでした。
遺構のある所には「堀切」などの目立たない標柱があり、とても親切です。それと、2~3mおきに並べられた羅漢像。それぞれ表情が違うので見飽きません^^

▲本丸の入口
ぐるっと回り込むように歩いて、かなり奥に「本丸」の標柱が。入口は土塁で壁のようになっていて、中の様子が見えません。俗に言う「馬出」なんですね!
本丸にも外周に沿って羅漢様が並べられていました。一番奥は輪のように並んで見えて、井戸端会議をしているようにも見えました。本丸を出てすぐの所には虎口もあります。この辺は後北条氏の城に見られる形式なんだそうです。
◆歴史◆
小山田城は1171年に小山田荘の別当となった秩父有重により築かれました。有重は地名をとって小山田姓を名乗るようになります。小山田氏をはじめとする秩父一族は源平合戦での働きが評価され、広大な領地を得ました。
小山田一帯はこの頃に2男の重義が継ぎ、3男・重成は稲毛庄を、4男・重朝は榛谷御厨など、一族で武蔵国の南西部一帯を支配する程の勢力となりました。
ですが、この隆盛は長くは続かず、1205年の畠山重忠の乱に巻き込まれて一族は滅亡します。5男・行重は飛び地であった甲斐の所領に居て難を逃れ、郡内小山田氏として家名を継ぎました。
しかし、ここでちょっとした疑問が・・・小山田有重の館跡にある大泉寺。1227年に有重により開基されたと伝わっています。源平合戦の頃には隠居しており、政争に巻き込まれずに生き残ったということでしょうか。開基は5男・行重であるという説もあり、こちらの方が現実的かもしれません。
鎌倉時代の小山田城は北条氏の持ち城となったようです。鎌倉幕府を滅ぼそうと新田義貞が挙兵した際には北条泰家が籠城。最終的には落城しています(1333年頃)。この時は義貞の配下として小山田高家が活躍しています。
室町時代になると扇谷上杉氏の領地となりました。1476年に長尾景春が乱を起こすと、太田道灌は小山田城に大改修を加えました。しかし、翌年には景春方の軍勢に攻め落とされました。
後北条氏の時代になると、小山田弥三郎が小山田荘を領していたようです。これは1559年の『小田原衆所領役帳』に「他国衆」として登場します。この頃の郡内小山田氏は武田晴信の家臣になりつつも、半ば独立した勢力でした。後北条氏としては是非とも味方につけたい勢力だったと思います。
この「弥三郎」は小山田信茂という説が濃厚です。しかし、1566年に信茂は花押を武田流に改め、武田家臣としての立場を強調。実態は無いものの、ご機嫌をとるためのものだったのかもしれません。
その後北条氏は1590年に滅亡。遅くともその頃には小山田城も廃城になったと思われます。
所在地:東京都町田市下小山田町
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