2015/03/24
平賀城/長野県佐久市
平賀城は佐久宝寿霊園手前にありました。訪問日は2013年7月30日です。

▲ヘアピンカーブから出丸へ
佐久宝寿霊園の手前にヘアピンカーブがあり、そこから入った山中が城域です。
こちらは搦め手だそうで、大手は麓から登る道があるんだそうです。
・・・誰だって楽したいですもんね。

▲堀切?
山中に分け入ると、すぐにコレが現れました。
見た感じはかなり埋められたように見えます。
ルートとしては遠回りで知る人ぞ知る、という道だったのかもしれませんが・・・
だからこそ、厳重に備える必要があったんでしょうね。

▲石垣
そこかしこに少しずつあった石のかたまり。
ちょっとずつですが、どう見ても石垣ですよね?
それまで回った城跡はどこも土の城だったので、ちょっとビックリです。
ただ、高さが余り無いので、土止めとして組まれたのかもしれません。

▲出丸
割とすぐに辿り着いた平らな場所が出丸です。
写真で見た通り、かなり茂っていますw
この上の方がお城の主要部です。
知らなかったのか、草に負けたのか、ここで引き返しています。
他の方の訪城記を拝見していると、もっと立派な石垣がザックザク・・・
時たま自分でも理解出来ない(忘れた?)訪城をしてしまいますT_T

▲正安寺
林道を下った所にあるのが正安寺です。
城への道沿いにあるので、元々お城に関連していたのでしょうか。
位置的には城主様の居館がありそうな所です。
このお寺の周辺には、城キチなら思わず立ち止まりそうな立派な石垣があります^^
◆歴史◆
平安末期、源盛義が平賀に入り、その子・平賀義信が築いたと伝わります。
築城時期は不詳ですが、平賀義信により築かれたと伝わります。
平賀義信の父・源盛義は、甲斐武田氏の祖・源義清の弟です。
平賀氏は鎌倉幕府から6カ国の守護に、朝廷からも駿河守に任じられる大身でした。
1205年、牧氏事件により平賀朝雅が処刑されました。
平賀朝雅は北条時政の寵愛を受けて時政の娘を娶り、幕府内の要職に就いていました。
この寵愛が度を過ぎたのか、北条時政とその後妻・牧の方が朝雅を将軍にしようとしました。
この強引な手法に時政の娘・北条政子とその弟・義時により、北条時政が幽閉されました。
そして強制的に出家させられ、北条時政は幕政から外されました。
平賀朝雅も捕らえられ、京で処刑されてしまいました。
1221年、承久の乱により平賀氏が没落しました。
平賀惟信が承久の乱で宮方に付いて敗れたため、平賀氏は没落しました。
しかし、平賀氏は存続していて、その後の記録にも登場しています。
南北朝時代の平賀盛義は新田義重と深い親交があり、新田氏と同族化していきました。
1400年、大塔合戦で信濃守護・小笠原長秀と在地勢力が争いました。
平賀氏は守護方の大井氏と争いました。
1446年、平賀氏が滅びました。
平賀氏は信濃守護・小笠原氏や守護代・大井氏らと争って滅びました。
平賀城には大井氏の支配下に入り、依田氏が城番となりました。
1479年、大井氏は伴野氏と戦って破れ、大井政朝が伴野氏に捕われました。
大井政朝はその後帰されましたが、1483年に失意の内に没しました。
大井氏の家督は、政朝の弟・安房丸が継ぎました。
1484年、依田氏が独立し、内山氏を名乗るようになりました。
大井氏の混乱に乗じて村上政清が大井領に侵攻し、大井宗家は滅びました。
依田光俊は自立して内山城主となり、内山姓を名乗るようになりました。
内山城は平賀郷支配の拠点であり、平賀城は内山城の支城だったと思われます。
1501年、内山古城主・内山玄岑が海秀玄岱禅師を取り立てて正安寺を開創。
1536年、平賀源心が武田晴信の初陣で討ち取られました。
平賀源心は岩村田大井氏で、平賀城を居城としていたため平賀姓で呼ばれていたそうです。
ただし、最近では平賀源心が実在したかどうかが怪しくなってきたそうです

1542年、内山氏が武田晴信により内山城を追われました。
正安寺の寺伝によると、内山城主となった小山田備中守が現在地に正安寺を移したそうです。
小山田備中守は武田晴信の家臣ですが、郡内の小山田氏とは別系統です。
・・・ということは、平賀城はこの頃に廃城になっていたかもしれませんね。
小山田氏は正安寺を厚く守って菩提寺としました。
正安寺はその後三度火災に見舞われたため、記録が乏しいのだそうです。
すぐ近くにあった平賀城については、以後何もわかりません。
所在地:長野県佐久市常和
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