2015/03/17
荒山城/長野県佐久市
荒山城は長命寺の裏山にありました。訪問日は2013年7月30日です。

▲長命寺
ということで、このお寺を目指して訪問しました。
お寺だからすぐに場所がわかるだろうと思いましたが・・・
こんな感じで住宅街の中にあります。お城のあった丘も隠れて見えていませんでした。

▲本堂の裏に台地が
本堂から見るとなんでこんな高い所が見えなかったんだろう?という位の丘があります。
この丘に登る細道があったので、そこから登りました。

▲城内の様子
まとまった削平地なので、やっぱり畑になってます。
その奥にはこんもり高くなった櫓台っぽい所があります。
そこは木々が茂って行く気にならず「ああ、お城だったんだね」で退散・・・
その裏には二郭と隔てる堀切が健在だったのに

◆歴史◆
1521年、伴野貞慶が在城していました。
前山城の支城として築かれたようですが、その年代はわかっていません。
伴野氏は鎌倉時代に伴野荘を分知された小笠原氏の一族で、一時は小笠原氏の惣領でした。
それが鎌倉時代の終わり頃に政争に巻き込まれ、一族誅滅の憂き目に遭いました。
それでも隠棲していた一族が居り、鎌倉時代の滅亡とともに復活しました。
以後、前山城を本拠として佐久南部に勢力を拡大しました。
その前山城は荒山城から北西に2kmの所にあります。
記録にある1521年は、伴野貞祥が祖父と父の菩提を弔うため貞祥寺を開基した年です。
伴野貞慶は伴野貞祥の兄弟とも同一人物とも言われていますが、詳細は不明です。
1527年、伴野氏と大井氏が戦い、伴野氏が行方不明に
1540年、武田信虎が佐久に侵攻し、伴野氏の前山城を拠点とした
1548年、上田原の戦で武田軍が村上軍に大敗し、伴野氏は村上氏に降伏
1549年、伴野氏が武田氏に寝返り、初めて甲府に出仕
1582年、落城し廃城となりました。
織田信長により武田勝頼が滅ぼされると、佐久郡・小県郡は滝川一益が支配しました。
しかし、その3ヶ月後には本能寺の変により織田信長が横死し、滝川一益は伊勢へ逃げました。
空白地帯となった信濃・甲斐では、徳川・北条・上杉による争奪戦が始まりました。
この時、佐久郡・小県郡ははじめ北条氏が押さえましたが・・・
徳川家康に従った依田信蕃が次第に勢力を拡大しました。
依田信蕃は元々は大井氏の家臣だった芦田信守の子です。
しかし、大井氏や伴野氏は依田信蕃に従わなかったため、戦となりました。
この時の戦で荒山城も攻められ、城主・市川長義の母が自害しています。
なぜ城主の母が?と思いましたが、、、市川長義が留守だったからのようです。
市川長義がどんな人物だったのかはわからずじまいです

所在地:長野県佐久市大沢
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