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荒山城/長野県佐久市

荒山城は長命寺の裏山にありました。
訪問日は2013年7月30日です。

荒山城/①長命寺
▲長命寺

ということで、このお寺を目指して訪問しました。
お寺だからすぐに場所がわかるだろうと思いましたが・・・
こんな感じで住宅街の中にあります。お城のあった丘も隠れて見えていませんでした。

荒山城/②本堂の裏
▲本堂の裏に台地が

本堂から見るとなんでこんな高い所が見えなかったんだろう?という位の丘があります。
この丘に登る細道があったので、そこから登りました。

荒山城/③城内
▲城内の様子

まとまった削平地なので、やっぱり畑になってます。
その奥にはこんもり高くなった櫓台っぽい所があります。
そこは木々が茂って行く気にならず「ああ、お城だったんだね」で退散・・・
その裏には二郭と隔てる堀切が健在だったのにあせるやっちまった感がハンパないですw


◆歴史◆

1521年、伴野貞慶が在城していました。

前山城の支城として築かれたようですが、その年代はわかっていません。
伴野氏は鎌倉時代に伴野荘を分知された小笠原氏の一族で、一時は小笠原氏の惣領でした。
それが鎌倉時代の終わり頃に政争に巻き込まれ、一族誅滅の憂き目に遭いました。
それでも隠棲していた一族が居り、鎌倉時代の滅亡とともに復活しました。
以後、前山城を本拠として佐久南部に勢力を拡大しました。
その前山城は荒山城から北西に2kmの所にあります。
記録にある1521年は、伴野貞祥が祖父と父の菩提を弔うため貞祥寺を開基した年です。
伴野貞慶は伴野貞祥の兄弟とも同一人物とも言われていますが、詳細は不明です。

1527年、伴野氏と大井氏が戦い、伴野氏が行方不明に
1540年、武田信虎が佐久に侵攻し、伴野氏の前山城を拠点とした
1548年、上田原の戦で武田軍が村上軍に大敗し、伴野氏は村上氏に降伏
1549年、伴野氏が武田氏に寝返り、初めて甲府に出仕

1582年、落城し廃城となりました。

織田信長により武田勝頼が滅ぼされると、佐久郡・小県郡は滝川一益が支配しました。
しかし、その3ヶ月後には本能寺の変により織田信長が横死し、滝川一益は伊勢へ逃げました。
空白地帯となった信濃・甲斐では、徳川・北条・上杉による争奪戦が始まりました。

この時、佐久郡・小県郡ははじめ北条氏が押さえましたが・・・
徳川家康に従った依田信蕃が次第に勢力を拡大しました。
依田信蕃は元々は大井氏の家臣だった芦田信守の子です。

しかし、大井氏や伴野氏は依田信蕃に従わなかったため、戦となりました。
この時の戦で荒山城も攻められ、城主・市川長義の母が自害しています。
なぜ城主の母が?と思いましたが、、、市川長義が留守だったからのようです。
市川長義がどんな人物だったのかはわからずじまいですあせる


所在地:長野県佐久市大沢

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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