2015/03/15
蟻城(南城)/長野県佐久穂町
蟻城は国道141号の東側にあり、山頂付近に放送施設があります。訪問日は2013年7月30日です。

▲山頂への道の入口
蟻城は西城、南城、北城とありますが、南城にだけ行って来ました。
南城へは穴原の集落を抜け、山への道を登ります。
・・・と文章だとサラっと書けますねw
地図を見た通りで、迷わず行けると思います。
どっちだろう?って思ったのはココだけですが・・・
勘で左へ行ったら正解でした^-^

▲道の様子
道はあまり広くありませんが、山頂付近まで舗装されています。
反対から車が来たらすれ違えませんが・・・
多分すれ違うことはないかも。
同志の方が来てなければ、ですがw

▲道の終点
そのまま道なりに登りきった所が城跡です。
ここもきっと郭だったんでしょうね。

▲放送施設
回れ右をすると、某公共放送局の施設があります。
何やってる所なのかは知りませんが、放送に関わるものですよね?
・・・お子様でも答えられそうな事ですw

▲段になった郭
もういちど回れ右をすると、すぐ目の前に山頂部が見えます。
あまり高くないので、すたこら登れます。
その途中には、段になった郭がいくつか見えます。
1つ1つはあまり広くありません。

▲城址標柱
そして、登り切った所がたぶん主郭で、ソコには標柱が1本ありましたヽ(´∀`)ノ
とまぁ、これだけの城跡のように見えました。
堀切や土塁などは見つけられず。もしかしたら裏側にあるのでしょうか?
・・・と、書いてて不安になってきました

◆歴史◆
蟻城も馬越城同様、築城年代や築城者、城主等不明です。
ただし、西城と南城は一城別郭の構造であることから、軍事的なお城だったと思われます。
・・・ということで、この辺りを治めていた伴野氏の略暦でお茶を濁します

伴野氏は小笠原氏の庶流で、小笠原長清の6男・小笠原時長を祖とします。
小笠原時長は平安時代末から鎌倉時代はじめの人物で、小笠原氏の惣領でした。
時長は伴野荘を分知され、伴野姓を名乗るようになりました。
1285年、霜月騒動により伴野氏が没落しました。
これは鎌倉幕府内で権勢を得た平頼綱による、有力御家人の粛清です。
当時の当主・伴野長泰は安達安盛と血縁関係があったため、粛清の対象となりました。伴野氏の所領は北条氏により没収されました。
1333年、伴野氏が復活します。
鎌倉幕府が滅び、足利尊氏に味方した伴野長房が、大徳寺領の伴野荘を押領しました。
伴野長房は伴野荘に代官を置き、自身は京に在って尊氏軍に参加しました。
1479年、大井氏との抗争が始まりました。
伴野荘で勢力を拡大した伴野氏は、境を接するようになった大井氏と争うようになりました。
伴野光利は戦に大勝し、大井政朝を捕らえています。
大井氏の没落はここから始まります。
1527年、伴野氏が一時没落しました。
伴野氏と大井氏の争いは、武田信虎と村上義清を巻き込んでエスカレートしていました。
伴野貞祥が武田信虎とともに大井行満・村上義清と戦って大敗を喫しました。
『妙法寺記』では、戦に敗れた伴野氏が行方不明になったと記されています。
1536年、武田信虎が大井氏を屈服させました。
平賀源信の守る海ノ口城を陥落させ、大井氏が武田氏に降ったと思われます。
平賀源信は大井氏の惣領で、平賀城に住んでいたためそう呼ばれていました。
武田晴信はこの時初陣でしたが、知略により海ノ口城を攻め落としました。
1538年、武田信虎が佐久郡に侵攻しました。
この時に板垣信方が海尻城を攻めていますが、村上義清軍により撃退されています。
1540年、武田軍が佐久郡を制圧しました。
板垣信方が知略により海尻城を陥落させました。
伴野氏の本拠・前山城を武田軍が基地として使用しており、伴野氏が復帰したと思われます。
1541年、武田晴信が父・信虎を駿河へ追放。
1542年、武田晴信が諏訪氏を滅ぼす。
1546年、武田軍が佐久郡に侵攻し、大井貞清を捕らえる。
1548年、上田原の戦で武田軍が村上軍に大敗しました。
この戦で武田軍の重鎮・板垣信方が討死しています。
伴野左衛門はこの直後に村上方に寝返りましたが、翌年には武田方に復帰しました。
1550年、武田軍が村上軍の砥石城を攻めて大敗(砥石崩れ)。
1551年、真田幸隆が砥石城を1日で攻略。
1553年、村上義清が武田軍に破れ、越後に落ち延びました。
所在地:長野県南佐久郡佐久穂町穂積穴原
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