2015/03/10
海尻城/長野県南牧村
海尻城は国道沿いにあり、目の前にはJRの駅もあります。訪問日は2013年7月30日です。

▲医王院の本堂
海尻城は国道141号の「海尻城跡」交差点脇にありました。
城跡の麓にあるのが医王院です。
ここからどうやって登るのかな・・・と周りをウロウロしました。

▲登城口
かなりウロウロした後、国道からお寺に入り直してみました。
すると、鐘楼の手前左側に何やら山中に向かう道が!
迷った時は素直に初心に戻ってみると、案外冷静になれます。

▲城址標柱
山上へ向かう道はとても細いのですが・・・登り切った所に標柱がありました。
ここで間違いないですね!ちゃんと正解だと確認出来る案内はとても助かります


▲城内の様子
山上は愛宕大権現が祀られており、そのお祭りの準備中のようでした。
お祭りがいつどこであるかなんて気にして無かったwww
その内マラソン大会か何かで道が通れない!なんてのに当たらなければよいのですが・・・
簡単にウロウロ出来る一番奥に、紅白の布で囲まれた石碑が見えました。

▲城址碑
この石碑が城址碑です。
写真を拡大すると「海尻城址之碑」と彫られています。
・・・石碑オタク様目線だと、ちょっとアレですかね

◆歴史◆
伴野氏の家臣・井上長門守が築いたとされます。
築城年代は不明ですが、伴野氏の家臣である井上長門守により築かれたとされます。
伴野氏は佐久郡に勢力があり、佐久市の伴野城のち前山城を本拠としていました。
北隣の大井氏とは1479年に大きな戦をしており、武田軍が伴野軍の援軍として来ています。
1509年、関東管領・上杉顕定が伴野六郎と大井太郎の争いを仲裁。
1510年、関東管領・上杉顕定が越後で討死。
1519年、武田信虎が佐久郡の平賀城を攻めた。
1522年、武田信虎が佐久郡の大井城を攻めるが、村上軍が撃退。
伴野氏・武田氏と大井氏・村上氏が佐久を舞台に争っています。
1527年、村上義清の持ち城になったとみられます。
伴野貞慶または伴野貞祥の要請により、武田信虎が佐久郡に侵攻しました。
この戦は村上軍が大勝したようで、伴野氏が行方不明になったという記録があるそうです。
1536年、村上義清により改修されました。
同じ年に武田信晴が初陣で海尻城の東にある海ノ口城を攻めています。
この戦との前後はわかりませんが、村上義清が海尻城を改修しています。
これは武田軍の佐久郡侵攻に備えたものと思われます。
海尻城には村上軍のエース・薬師寺清三が守将として配置されました。
1538年、武田軍に攻められました。
武田軍の板垣信方が海尻城を攻めました(第一回海尻城合戦)。
この時は村上軍が守りきっています。
1539年、武田軍が佐久郡に侵攻
1540年、村上軍が甲斐に侵攻
1540年4月、武田軍により陥落しました。
武田軍が佐久郡へ侵攻し、その際に板垣信方により落城しました。
小山田昌行が守将となります。
1540年12月、村上軍に攻められました。
土一揆を扇動した村上軍に攻められました。
三郭、二郭まで占領されましたが、武田軍の援軍が到着し落城は免れました。
1541年、武田晴信が父・信虎を駿河へ追放。
1542年、武田晴信が諏訪氏を滅ぼす。
1546年、武田軍が佐久郡に侵攻し、大井貞清を捕らえる。
1548年、上田原の戦で武田軍が村上軍に大敗しました。
この戦で武田軍の重鎮・板垣信方が討死しています。
伴野左衛門はこの直後に村上方に寝返りましたが、翌年には武田方に復帰しました。
1550年、武田軍が村上軍の砥石城を攻めて大敗(砥石崩れ)。
1551年、真田幸隆が砥石城を攻略。
1553年、村上義清が武田軍に破れ、越後に落ち延びる。
1554年、武田晴信が小笠原氏を破り信濃を完全制覇。
1582年、廃城となりました。
3月に織田信長により武田勝頼が滅ぼされました。
6月には本能寺の変により織田信長が斃れ、信濃・甲斐は大混乱に陥りました。
武田旧臣が各地で織田家臣を排斥しましたが、彼らを束ねる人物が不在でした。
そのため、周囲の徳川家康・北条氏直・上杉景勝らによる争奪戦となりました。
この時、甲斐では徳川家康の命により、依田信蕃が武田旧臣の取り込み工作をしていました。
しかし、依田信蕃は元は大井氏の家臣であり、佐久郡の諸将は下風につくことを嫌いました。
そのため戦となり、伴野信守が本拠の前山城で討死しました。
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