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上原城/長野県茅野市

上原城は諏訪惣領家の本拠でした。

訪問日は2013年7月30日です。



上原城/①案内図

▲案内図 拡大表示



諏訪氏は大まかに上社・下社と惣領の3つの勢力が対立していました。

ここは惣領家の本拠だった所です。

その惣領家の居館跡にこの案内図付の説明板があります。

麓に居館を置き、背後の山に戦時用の詰めの城がある戦国時代によくみられる形式です!

図では居館から城に向けて点線が描かれていますが・・・

楽をしたい主義なので、クルマで車道を登りました。



上原城/②板垣平

▲諏訪氏居館跡



諏訪氏の居館跡なのですが、名前は「板垣平」なんです。

武田晴信の重臣・板垣信方が居たからだと思いますが、居たのはせいぜい5年程。

それでも名前が地名に残るなんて、よっぽど凄い人物だったんですね。



上原城/③城址入口

▲城址入口



クルマでうねうね道を登ると、上原城の案内があります。

流石は有名どころ、案内もかなり気合が入っていますね!

迷子スキル高めでも大丈夫です。たぶん。



上原城/④堀切

▲堀切



登城口にクルマを停めて歩き始めること2分で、この堀切に出会いました。

こんなスグに?なんて思いましたが、当時はクルマなんてありませんでしたからね。

ここは城域の最重要部への入口、ということですね。



上原城/⑤三郭の手前

▲登城路



この堀切を越えると三郭に至るのですが、その登城路は崖っぷちです。

上の二郭や主郭から攻撃されたらひとたまりもありませんね!

こんな仕掛けが見てとれる城跡は大好きですラブラブ



上原城/⑥三郭にある金比羅社

▲三郭



三郭には金毘羅神社があります。

この神社は江戸時代の1805年に四国の金毘羅大権現を勧請したものだそうです。

・・・と説明板には書かれています。

麓に全国区の有名な神社があるのに、何故でしょうね?w



上原城/⑦二郭にある物見岩

▲二郭にある物見岩



その神社の脇から上がった所が二郭です。

案内図だとすぐ隣に描かれていますが、写真の通り、神社の屋根くらいの高低差があります。

名前は物見岩ですが・・・よく滑りそうであんまり登りたくありませんねあせる

普通はそう思うせいか、「登らないでください」とは書かれていませんでした。



上原城/⑧主郭

▲主郭



そして主郭です。城跡の神社って大抵主郭にあるんですけどね。

流石に諏訪氏の城跡だから、よその神社を建てるのは遠慮したのでしょうか。

城の中心部だけあってしっかり削平されており、周囲を低い土塁が囲んでいるのが見えます。





◆歴史◆



諏訪惣領家が本拠としました。



麓の居館は1466年に築かれましたが、城の方は築城年不明です。

当時の諏訪では諏訪惣領家と上社・下社が対立していたので、その影響でしょうか。

だとしたら、詰め城である上原城の築城時期はそんなに離れていないように思えます。



1483年、諏訪政満・宮若丸が諏訪継満に謀殺されました。



惣領家当主である諏訪政満とその嫡男・宮若丸が上社大祝の諏訪継満により謀殺されました。

諏訪継満は大祝の在任期間が長く、惣領家の指図には従わず長年対立していました。

このクーデターを機に諏訪を牛耳ろうという目論みでしたが・・・

家臣団の反発により諏訪から追放され、高遠氏を頼って落ち延びました。

諏訪惣領家は諏訪政満の次男・頼満が10歳で家督を継ぎました。

諏訪頼満は下社大祝の金刺昌春を追放し、高遠氏を屈服させて諏訪氏に全盛期を築きました。



1528年、武田信虎に攻められますが、境川で武田軍を撃退しました。

1531年、諏訪頼満が甲斐へ侵攻し、河原部合戦で武田軍に敗れました。

1537年、諏訪頼満が没し、嫡孫・頼重が家督を継ぎました。

1538年、諏訪頼重が武田信虎と和睦しました。
1541年、武田信虎が武田信晴により追放されました。



1542年、武田晴信により諏訪惣領家が滅ぼされました。



7月、武田晴信は諏訪氏との同盟を破棄して諏訪へ侵攻しました。

この戦いではかねてから諏訪惣領家と対立していた諏訪一族の高遠氏を巻き込んでいます。

諏訪頼重を自害させた後、諏訪は東半分が武田領、西半分が高遠領とされました。



9月、諏訪領全域の支配を望む高遠頼継が、諏訪の武田軍に攻めかかりました。

上原城も高遠軍に攻め落とされましたが、武田軍の反撃により諏訪から高遠氏が撤退しました。

武田軍は追撃の手を緩めず、高遠城および藤沢頼親の福与城を攻め落としました。

高遠頼継と藤沢頼親は武田軍に降伏しました。



上原城には諏訪郡代として板垣信方が配置されました。



1543年、武田軍が佐久郡へ侵攻し、支配下に収めました。

1544年、藤沢頼親が謀叛を起こし、高遠頼継が同調しました。

1545年、高遠頼継と藤沢頼親を攻略し、福与城を焼き払いました。

1546年、武田軍が再び佐久郡へ侵攻し、大井貞清を捕らえました。

1547年、武田軍が佐久郡を攻め、関東管領・上杉憲政に大勝しました。



1548年、板垣信方が上田原の戦で討死しました。



武田軍は佐久郡から更に北上し、村上義清を攻めました。

上田原の戦いで武田軍は村上軍に大敗を喫し、板垣信方や甘利虎泰ら多数の重臣を失いました。

特に板垣信方の討死は影響が大きく、諏訪の統治が不安定になる原因となりました。

以後、室住玄蕃充(板垣信方の弟)、次に長坂虎房が上原城の城主となりました。



1549年、長坂虎房が高島城へ移りました。


以後の諏訪郡代は水城である高島城を拠点としました。

上原城も引き続き諏訪統治と信濃侵攻の基地として使用されています。



1582年、廃城となりました。



織田信長により武田勝頼が滅ぼされました。

以後、諏訪の統治は高島城を中心に行われるようになり、上原城は廃城となりました。





所在地:長野県茅野市茅野上原



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コメント

実は

久々に新田次郎さんの『武田信玄』を読んでいて、上原城の名がかなり出てくるので、タイムリーやなぁ~って思っていました。

めちゃめちゃデカイ城という訳ではないですが、一時は信玄の片腕ともいえる、板垣信方が城代になった城だけに、個人的には嘱望の眼差しで見れる城です。

Re:実は

>syunpatsuryoku1号さん
小説面白そうですね!
長野シリーズはあと40箇所ほど続きます。
これから佐久方面なので、板垣信方がよく登場すると思います。
山梨も行きっぱなしで全然書けていませんが(^^ゞ
これから色々調べて、どんなエピソードが見つかるのか私自身も楽しみです♪
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なぽ

Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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