2015/03/07
花岡城/長野県岡谷市
岡谷市の花岡城は諏訪湖西岸にあります。訪問日は2013年7月30日です。

▲主郭南側の郭に駐車
ここは公園になっているので楽勝!なんて思っていましたが・・・
南西の辰野から県道16号を東へ進み、右折するのにひと苦労。
道は細いのですが、交通量が多くなかなか曲がれませんでした。
通勤時間帯というのもありましたが。
夏休みでふらりふらりと走り回ってると、そういう世俗的な事をすっかり忘れますw
やっとのことで右折すると、今度は細くて急な坂道を登ります。
地図で見ると簡単に行けそうに見えますが、なかなか苦労しました。
オートマ車でさえエンストするかも、なんて思いました。
そして、坂を登り切って城跡の前の道に出るのですが、ここもなかなか車が多いです。
この道は下の県道16号の渋滞を回避するルートのようです。
ということで、ようやくたどり着いたのが主郭の南側の駐車場です。
公園の駐車場・・・だと思いますが、案内は出ていません


▲主郭
これまた地図で見るとすぐに見えますが、駐車場から主郭までは急坂を登ります。
階段が付けられているのですが、地上から3階に上がる位の比高差があります。
その階段を登り切った所が主郭です。
いきなり主郭なので、この階段は搦め手口か、本来は登城路ではなかったかもしれません。

▲標柱と説明板
主郭には城址標柱と説明板があります。
コレ城跡には欲しいですよね!
最近回ってる城跡が藪ばかりなので、こういうのに飢えてるってのもありますが。
何気なく「あって当たり前」なんて思えますが、実はとてもありがたいものです


▲土塁
主郭の縁には低い土塁が巡らされています。
伊那っぽい低さですw
往時はここに柵か塀があったのでしょうか。
急峻な山上にあるので、これだけでもかなりの防御力を発揮しそうです^^

▲諏訪湖
主郭からは諏訪湖が一望出来ます。
こうして見ると、諏訪湖南岸の交通を抑える要地だったんですね。
陸路も水路も掌握できそうな感じです。
◆歴史◆
花岡城は諏訪西方衆の花岡氏の居城でした。
築城年代はわかりませんが、かなり古くからあったと思います。
花岡氏は諏訪一族で、有賀氏から派生したとされます。
南東の小坂氏も有賀氏から派生しており、地図で見るとかなりの勢力ですね!
地理的には諏訪下社に近いので、下社の金刺氏に従っていたのでしょうか。
下社と上社の争いは上社が圧倒的に優位だったので、上社に従っていたのでしょうか。
・・・どうなんでしょうね?
1400年代には始まっていた両社の争いは、守護家小笠原氏の内紛ともリンクしました。
下社には府中小笠原氏、上社には松尾小笠原氏が味方したのです。
花岡城は伊那から諏訪への入口に当たるので、上社側の防衛拠点だったのかもしれません。
1542年、武田軍が諏訪を制圧しました。
前の年に武田信虎を追放した武田晴信は、同盟を破棄して諏訪を制圧しました。
この時に諏訪一族の高遠氏も武田方につき、戦後は諏訪の西半分を領有しました。
花岡忠常は武田氏に従ったとされますが、実際は高遠氏に従ったのかもしれません。
1544年、諏訪西方衆が反武田の一揆を起こしました。
花岡氏も諏訪西方衆なのですが、どうなんでしょうか?
この一揆は高遠頼継により策動されたと考えられます。
高遠頼継は諏訪西方衆、諏訪下社および藤沢頼親を誘い、武田軍に反抗しました。
この時は小笠原長時が援軍についたため、不利を悟った武田軍は撤退しています。
1545年、高遠城が武田軍に制圧されました。
前年の諏訪一帯の乱を鎮圧するため、武田軍が再び侵攻しました。
この戦では龍ヶ崎城で小笠原軍が大敗し、高遠・藤沢両氏は武田軍に降伏しています。
1548年、廃城になったものと思われます。
2月、武田軍が村上軍との上田原の戦で壊滅的な敗北を喫しました。
この戦で諏訪郡代の板垣信方の他、甘利虎泰など多数の重臣が討たれています。
その1月後に村上軍が佐久郡に進軍しましたが、武田軍はまともに対応出来ませんでした。
この動きを見た小笠原長時が、武田討伐の兵を挙げました。
村上義清のほか、武田軍に降っていた藤沢頼親や仁科氏なども加わりました。
花岡忠常ら諏訪西方衆も武田方から寝返っています。
小笠原軍は諏訪に侵攻し、下社(諏訪湖西岸)を占領しました。
7月、塩尻峠(実際は勝弦峠?)で武田軍と小笠原軍が激突しました。
この戦いは武田軍の圧勝に終わりました。
小笠原軍は壊滅的な打撃を受け、藤沢頼親は再び武田軍に降伏しました。
花岡城もこの時に攻められて落城し、廃城になったとみられます。
所在地:長野県岡谷市湊
長野県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント