2015/03/06
荒神山城/長野県辰野町
荒神山は「こうじんやま」と読みます。訪問日は2013年7月30日です。

▲荒神社
荒神山城の跡は公園となっていますが、城址碑や説明板の類は見つけられず。
そこにお城があったという雰囲気が全くありません。
山の上までコンクリートで固められ、様々な施設があります。
なだらかな丘の上に広大な平地がある感じなので、陣を張るには良さげですが。
なぜここに来ようと思ったのか、今もって謎ですw
ここ・・・だよな?と思いながらクルマで走り回っていました。
あまりに城跡らしく無く、何も撮らないで次に行くのもなぁなんて時に神社を見つけました。
ここは郭だったのかな?と思って周囲を見回してみましたが・・・わからず

山の名の由来がこの神社らしいので、お城よりも先にあったという事ですね。
◆歴史◆
1542年に武田晴信が諏訪氏を滅ぼしました。
この時、高遠頼継は武田軍に協力して諏訪の西半分を得ました。
しかし、3ヵ月後には離反して高遠軍が諏訪全土を掌握しました。
この動きに対して武田軍が反撃に転じ、諏訪領から高遠氏を駆逐。
更に高遠城と藤沢頼親の福与城に迫り、両氏を降伏させました。
1544年、武田軍に攻められました。
諏訪西方衆が武田氏から離反し、板垣信方に鎮圧されました。
今度は藤沢頼親が離反し、挙兵しました。
藤沢頼親は諏訪との境にある荒神山に城を築いて武田軍に備えました。
荒神山城では小笠原長時から草間肥前守が派遣されてよく守りましたが・・・
武田信繁に攻められ落城しました。
その後、武田軍は藤沢頼親の本拠・福与城を包囲しましたが・・・
小笠原長時が援軍に駆けつけたため、武田軍は撤退しました。
この直後、高遠頼親も武田氏から離反し、諏訪に攻め寄せています。
推測ですが、城として使われたのはこの時だけだと思います。
翌1545年、軍備を整えた武田晴信は、再び高遠氏と藤沢氏を討伐しました。
高遠頼継はこの知らせを受けると城を捨てて逃げ出しました。
武田軍はまたしても福与城を包囲しましたが・・・
小笠原長時軍が福与城の西にある龍ヶ崎城に入ったため、戦況が膠着しました。
しかし、今川・北条両氏からの援軍が到着すると、龍ヶ崎城は1日で陥落しました。
そのため、藤沢頼親は弟の権次郎を人質に差し出して、再び武田軍に降伏しました。
武田軍は降伏を受け入れたのですが、翌日、福与城を焼き払いました。
藤沢頼親はこの後もう1回離反→降伏した後、信濃から追放されました。
しかし、1582年までに戻ってきて、田中城を築いています。
かなりしぶとい人物だったんですね^^
所在地:長野県上伊那郡辰野町樋口
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