2015/02/26
箕輪城/長野県箕輪町
箕輪城は養泰寺の裏です。訪問日は2013年7月30日です。

▲養泰寺
城跡がこのお寺の裏にあります。
Google Mapにも載っているので、まずはこのお寺を目指して突撃です。

▲城跡はお寺の裏です
お寺の裏に回ると、何やら山へ向かう道に白い板があります。
ここが箕輪城への登城口です。
もしかして山登り?かと嫌な予感がしましたが・・・
その割には素直に登っていますw

▲土塁?
さっきの道を登った所は、養泰寺の墓地となっています。
しかし、よっく見ると、端の方に土の壁が・・・土塁です!
ということは、ここはもう城域なんですねヽ(´∀`)ノ

▲上から見た堀切
はしゃぎながら土塁を見て回っていると、こんどは何やら深い谷間が見えました。
・・・もしかして堀切?
はじめは堀切とは思っていませんでしたが、近づいてみると堀切です。
それくらい深く鋭いえぐられ方です


▲下から見た堀切
堀切の定番のアングルです。
深く鋭い薬研堀ですね^-^
今は墓地周辺にしか遺構が無いのです。
この堀を見るとかなりの規模だったと思われます。
◆歴史◆
室町時代はじめ頃、箕輪氏により築かれたと考えられます。
箕輪氏は木曽氏庶流の高遠太郎義信を祖とします。
初代の箕輪義雄が没したのが1445年とされるので、
その2、30年前頃築かれたのかもしれません。
1532年、木下総蔵が城主となりました。
箕輪氏が当地を追われたようで、木下総蔵が城主となりました。
この年にあった出来事といえば、100年近く続いた小笠原氏の内紛終結です。
府中小笠原氏が松尾小笠原氏に勝利し、松尾には府中家当主の弟が入りました。
・・・ということは、箕輪氏は松尾小笠原氏に従ったために所領を失ったと思われます。
木下総蔵は福与城主・藤沢隆親の家臣です。
・・・ということは、藤沢氏は府中小笠原氏派だったということですね!
藤沢隆親の嫡男・藤沢頼親は小笠原長棟の娘を正室に迎えています。
時期は不明ですが、木下総蔵は藤沢頼親の次男・重時を養子に迎えました。
木下総蔵が下伊那へ移った後は、木下重時が城主となりました。
その後が不明なのですが・・・
1582年、廃城になりました。
武田勝頼が滅ぼされた後、信濃は一時空白地となり争奪戦が繰り広げられました。
いわゆる天正壬午の乱です。
伊那地方は織田軍に追われた旧領主が、徳川家康の後ろ盾により帰り咲くケースが殆どでした。
しかし、元福与城主の藤沢頼親は北条氏直に属したため、徳川家康により滅ぼされました。
箕輪城の木下重時も実父とともに滅ぼされたと伝わります。
さて、少し時代を遡ると、ひとつ素朴な疑問が浮かびます。
それは、武田家中から追放されていた藤沢頼親が、なぜ旧領にすんなり戻れたのか?です。
1542年に武田軍の軍門に降ったものの、以後毎年のように謀反→帰参を繰り返しました。
そのせいか、1549年に降伏した際には居城の福与城を焼き払われてしまいました。
しかし、時期は不明なものの、藤沢頼親は福与城の近くに田中城を築いて復帰しています。
田中城は遺構が何も残っていませんが、正八角形の堀を構えた壮大な平城だったそうです。
追放されていた人物が大した戦もせず、なぜ易々と旧領に城まで築くことが出来たのか。
箕輪城の歴史を調べていたら、ふと以下の仮説が浮かびました。
それは、追放されたのは藤沢頼親1人で、一族家臣は所領を安堵されていたのでは?という事。
藤沢頼親の嫡男・藤沢頼広の足どりはわからないままでしたが・・・
1556年に伊那地方で反武田の謀反がありました。
この乱を首謀して処刑された領主達が、いずれも藤沢氏の家臣なのです。
という事は、ホトボリが冷めればフラッと帰って来れる状態だったのかもしれませんね。
・・・脱線の方が長くなるのは悪いクセですね

所在地:長野県上伊那郡箕輪町中箕輪
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コメント
えげつない堀切ですね!
最初は堀切だと思わなあいのも頷けます。
2015/02/27 06:58 by syunpatsuryoku1号 URL 編集
Re:えげつない堀切ですね!
遠くから見た時は普通に谷だと思ってました。
しかし、近づいて見たらスゴイ堀切でした。
ちゃんと際に土塁までありましたから^-^
2015/02/27 19:24 by なぽ URL 編集