2015/02/23
春日城/長野県伊那市
春日城も春日公園となっています。訪問日は2013年7月29日です。

▲春日公園
春日城も公園となっています。
あぁ、でもまぁ、公園になってれば破壊されないか。
・・・というのは来る前に思っていたことです。

▲空堀
でも!来てビックリ。ちゃんと立派な堀があります。
しかも、そこらじゅうにw

▲空堀
堀の角度が鋭い薬研堀です。
あまりに鋭いので、もしかしたら公園として造成する時に掘ったのかもしれませんが。
でも、ちゃんと考証してあればオッケー!
堀の斜面をわぁぁぁぁぁーいヽ(´∀`)ノ
と駆け下りたい衝動に駆られましたが・・・
年齢を考えて自粛しました。

▲土塁
全体的には多くありませんが、土塁もありました。
ただ、あまりに形が整い過ぎているようで、やっぱり公園造る時にいじったのかも。
当時の事を知らないので何とも言えませんが・・・
それっぽいのでオッケーです。
大阪城だってそれっぽい城ですからね。

▲城址碑
そして、ココにもちゃんとありました。
バッチリ公園にしといて、コレ無かったら暴れます。
欲を言えば、図が載った説明板が欲しいですね。
・・・見つけられてないだけかもしれませんが

◆歴史◆
1534年、伊那部重慶が300貫文の城主となりました。
この経緯を記したサイトが見つからなかったのですが・・・
この年に近所であった大きな出来事は、信濃守護・小笠原氏の統一です。
深志城の府中小笠原氏と松尾城の松尾小笠原氏は100年近く争い続けていました。
その争いが府中小笠原氏の勝利によって決着したのです。
伊那部重慶の本姓・春日氏は滋野氏の三家根津氏の支族です。
松尾小笠原氏との戦で功をたて、褒美として与えられたと考えるのが自然かもしれません。
1542年、武田信玄の軍門に降りました。
武田信玄は諏訪頼重を滅ぼした後、高遠城を攻めました。
これは諏訪本家と対立していた諏訪家の分家である高遠家がゴネたかららしいですが・・・
この戦いに伊那・福与城の藤沢頼親も高遠氏に援軍を出しました。
しかし、高遠城が落城したため、武田軍の矛先が福与城へ向けられました。
この戦いで、藤沢氏は鈴岡城の小笠原信定に応援を頼んだそうです。
小笠原信定は春日城に入って戦ったそうですが・・・
小笠原軍が敗れてしまったため、藤沢氏をはじめとする伊那衆は武田軍に降伏しました。
1556年、城主の伊那部重親が武田信玄に処刑されました。
弟の殿島重国をはじめ、他の伊那衆ととも武田軍に捕まり、伊那狐島で処刑されました。
一緒に処刑されたのは黒河内政信、溝口正慶、松島信久、宮田親房、小田切正則、上穂重清です。
彼らは武田軍が川中島で上杉軍と戦っている間に、信玄の娘が嫁いだ木曽氏を攻めたのです。
そのため武田軍に捕まり、処刑されて晒し首となっていました。
黒河内氏と溝口氏の領民が夜陰に紛れて首を奪還したのですが・・・
暗くてどれが自分の殿様の首か分からず、一緒にあった8つの首をまとめて奪還したそうです。
領民たちは、溝口正慶の居城だった艮城の近くに8人を弔いました。
現在は八人塚と呼ばれる石碑が建てられ、毎年春と秋に追善供養をしているそうです。
以後、春日昌吉が春日城の城主になりました。
伊那部氏の一族なのか、武田信玄が他の家臣に名跡を継がせたのかはわかりません。
1582年、廃城となりました。
織田信長が武田勝頼を討伐するため、信濃に攻め込んで来ました。
この時城主の春日昌吉は、メインの高遠城に詰めており、壮絶な討死を遂げました。
春日城も攻め落とされ、焼き払われて廃城となりました。
所在地:長野県伊那市伊那(春日公園)
長野県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント