2015/02/18
赤須城/長野県駒ヶ根市
赤須城は山の道を取り込むようにしてありました。訪問日は2013年7月29日です。

▲案内図 拡大表示
主郭前の説明板にあった案内図で、北は右です。
城跡に通じる道は、主郭に沿って通っているようです。

▲説明板と標柱 拡大表示
そのせいか、説明板は道端にあり、そのすぐ後ろは主郭です。
ただ、道沿いに土塁が無いので、壊されちゃったんでしょうね・・・

▲主郭内部
道から主郭の内側を見ると、土塁で囲まれている様子が見えます。
ここの土塁も高さはせいぜい1m程しかありません。
やはり、伊那地方のお城に築かれた土塁はどこもこんな感じのようですね。

▲カーブの所
図でいう主郭と出郭の間にあるカーブから主郭方向を見た所です。
外から見ると、土塁は高く見えますね。
往時は土塁の上に塀なり柵なりがあったのでしょうが・・・
どんな様子だったのか知りたいですね^-^;
◆歴史◆
南北朝時代(1336~92年の間)に片桐氏により築かれました。
片桐孫三郎為幸がこの地を分知され、城を築いたのが始まりとされます。
片桐氏の本拠地・船山城からは直線距離で13kmも離れています。
かなりの大勢力だったんですね!孫三郎為幸は赤須姓を名乗るようになりました。
1554年、武田信玄が伊那に侵攻し、軍門に降りました。
上穂城の歴史を調べてたら出てくるのですが・・・
赤須城でググっても出てきません。
近くのお城も調べてると、横のつながり出そうなものですがw
武田信玄が伊那に侵攻した際、小笠原氏とともに抵抗した家が多かったようです。
しかし、小笠原氏の鈴岡城や知久氏の神之峰城が陥落すると、殆どが降伏しました。
赤須清玄は片桐氏や飯島氏、大島氏、上穂氏らとともに降伏しました。
この五氏は武田家中で合わせて五十騎の兵役を担ったそうです。
1582年、廃城となったようです。
織田信長が武田勝頼討伐のため、伊那を攻めました。
武田信廉は居城の大島城を捨てて逃げてしまいましたが・・・
赤須氏は近在の諸氏とともに抵抗して滅びました。
所在地:長野県駒ヶ根市下平
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