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赤須城/長野県駒ヶ根市

赤須城は山の道を取り込むようにしてありました。
訪問日は2013年7月29日です。

赤須城/①案内図
▲案内図 拡大表示

主郭前の説明板にあった案内図で、北は右です。
城跡に通じる道は、主郭に沿って通っているようです。

赤須城/②説明板は道端にあります
▲説明板と標柱 拡大表示

そのせいか、説明板は道端にあり、そのすぐ後ろは主郭です。
ただ、道沿いに土塁が無いので、壊されちゃったんでしょうね・・・

赤須城/③主郭内部
▲主郭内部

道から主郭の内側を見ると、土塁で囲まれている様子が見えます。
ここの土塁も高さはせいぜい1m程しかありません。
やはり、伊那地方のお城に築かれた土塁はどこもこんな感じのようですね。

赤須城/④カーブの所
▲カーブの所

図でいう主郭と出郭の間にあるカーブから主郭方向を見た所です。
外から見ると、土塁は高く見えますね。
往時は土塁の上に塀なり柵なりがあったのでしょうが・・・
どんな様子だったのか知りたいですね^-^;


◆歴史◆

南北朝時代(1336~92年の間)に片桐氏により築かれました。

片桐孫三郎為幸がこの地を分知され、城を築いたのが始まりとされます。
片桐氏の本拠地・船山城からは直線距離で13kmも離れています。
かなりの大勢力だったんですね!孫三郎為幸は赤須姓を名乗るようになりました。

1554年、武田信玄が伊那に侵攻し、軍門に降りました。

上穂城の歴史を調べてたら出てくるのですが・・・
赤須城でググっても出てきません。
近くのお城も調べてると、横のつながり出そうなものですがw

武田信玄が伊那に侵攻した際、小笠原氏とともに抵抗した家が多かったようです。
しかし、小笠原氏の鈴岡城や知久氏の神之峰城が陥落すると、殆どが降伏しました。
赤須清玄は片桐氏や飯島氏、大島氏、上穂氏らとともに降伏しました。
この五氏は武田家中で合わせて五十騎の兵役を担ったそうです。

1582年、廃城となったようです。

織田信長が武田勝頼討伐のため、伊那を攻めました。
武田信廉は居城の大島城を捨てて逃げてしまいましたが・・・
赤須氏は近在の諸氏とともに抵抗して滅びました。


所在地:長野県駒ヶ根市下平

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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