2013/02/24
今井城/神奈川県横浜市保土ヶ谷区
すっきり綺麗に晴れた2月最後の週末。どっか行きたい!ってことで早速近所の城跡をリサーチ。
・・・ほぼ行き尽くしてる(;´∀`)
ということで、まだ行った事が無い今井城へ。
県内で残ってるのは甲斐国境の山城ばかり。
あと5度暖かくなったら行こう!
今井城跡は保土ヶ谷ICの近くにあります。
地図で見ると、首都高2本と国道16号が交わってます。
交通の要衝なんですね!
城の周りは地形の起伏が激しいです。
地図で見て曲がろうと思ってた交差点は立体の下・・・
ということで、少しずつ位置を確認しながら回り込みました。
そして、城下を巡る道に出て割とあっさり見つけました。
見たことある風景。

写真の家の角には皆さんが書いたとおり標柱がありました。
しかし、文字は完全に消え去ってしまい、何も読み取ることはできませんでした。
それと、バイクを停める所が無い

正面にある今井町ストアがまだ開いてなかったのですが・・・
店の方と思しきおじさまが、じっとこちらを見つめてらっしゃいました。
ココは駄目ぽ~
しばらくウロウロ走り回り、金剛寺入口の凹んだ所に停めさせてもらいました。
クルマだとそうはいきません


さて、ホントにココ?と半信半疑で登城路へ。
真冬だというのに道が草で覆われていました。
夏場だとちょっと無理っぽいです


1つ目のかな~り傾いた鳥居を抜けると急な階段。
城跡っぽさがプンプンします^^この階段を登り切ると・・・

小さなお稲荷さんの祠と不釣り合いに立派な城址碑が!
下半分には説明書きがありますが・・・・
要約すると、いつ誰が築いたかわからないけど、市内を代表する城跡なのだとか。
もっと立派な城跡いっぱいあるけどな~www

お稲荷様の脇を通り抜けると、尾根筋をザックリ削った跡が。
お!堀切かヽ(´ー`)ノ
サイトごとに遺構なのか、後世の改変なのかと物議を醸しているヤツです。
周りの状況を見ると、右には資材置き場。
左はすぐに行き止まり。
よって私は堀切の遺構派です。
だってもう誰にも分からないし・・・
この「堀切」の周囲をウロウロしましたが、やっぱり人工的な感じが。
本丸に通じる防御線だったのでしょうか。
更に登ると、民家が見えてきました。
城の建物もあんな感じで建ってたのかな~。
そんな妄想をしつつ、それ以上進むのはやめておきました。
後で地図を見たら更にその上に公園があったようで・・・
あぁ、行っとけばよかった。・゚・(ノД`)ヽ
◆歴史◆
先ほど城址碑の説明文では「何も分からない」とありました。
しかし!インターネットってすごい!
直接的ではなくても間接的には色々見えてきます。
間接的なので、直接今井城について書かれたものではないのですが・・・
今井城一帯はかつて「榛谷御厨」と呼ばれていました。
平安時代末期に榛谷重朝が領地を伊勢神宮に寄進していたからです。
「榛谷」は「はんがや」と読み、転訛して「保土ヶ谷」になったとされます。
榛谷重朝は小山田有信の4男で、稲毛重成の弟です。
稲毛重朝は兄同様に武芸達者であり、弓の名手として有名でした。
彼も源頼朝の忠実な家臣で、いつも源頼朝の乗馬を磨いていたそうです。
しかし、源頼朝没後の1205年に悲劇が襲います。
畠山重忠の乱です。
忠臣中の忠臣・畠山重忠は、謀反の兆しがあるとして討ち取られます。
しかし、これは稲毛重成の讒言によるとして、稲毛重成も討ち取られます。
災いは弟・榛谷重朝にも及び、同じ日に討ち取られました。
たった2日で、秩父一族の有力者がそろって粛清されました。
その後「榛谷御厨」は鎌倉幕府が接収。
朝廷の有力者・西園寺氏に贈られたようです。
西園寺氏は鎌倉幕府滅亡後、兄弟で中先代の乱の黒子となります。
西園寺氏は南北朝時代に伊予へ土着してからは全く分かりません。
後北条氏の勢力圏となってからは小机衆の領地となったのでしょう。
昭和30年に城跡の稲荷社から400kgもの古銭が発掘されました。
永楽通宝や宗・明の通貨が多かったことから、戦国時代のものです。
後北条氏は攻められると小田原に籠り、敵が帰ると元の領地を復活させました。
古銭は小田原に籠った城主が、戻った時のために埋めたのかもしれません。
後北条氏が滅ぼされると、今井村120石は有田九郎兵衛に与えられました。
有田氏は向かいの丘に陣屋を築いたため、今井城は廃城になりました。
直接的な記述が見つからないと、周囲の状況からもくもくと妄想を膨らみます。
それが楽しかったりしますけど^^
所在地:神奈川県横浜市保土ヶ谷区今井町
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コメント
無題
2015/02/08 01:13 by しん URL 編集