2015/02/15
大草城/長野県中川村
大草城は公園となっています。訪問日は2013年7月29日です。

▲公園の碑
ここに来る前は特に何も無い城跡という認識で来ました。
なので、これ撮ったら次へ行こうと思っていました。
通りすがりに近くを通ったから来た、という感じです。

▲案内図 拡大表示
ただ、せっかく来たんだし、みんなが見落としてる何かがあるかも知れない!
・・・なんて思いながら公園内を散策しました。
その公園の案内図がコレです。
城跡とは名ばかりのただの公園っぽいですね。

▲城内の様子
それでも、公園の真ん中は土が盛られたような感じに見えました。
木々の葉っぱが邪魔でよく見えませんが・・・
葉の無い季節に撮られた写真を見てると、一応城跡っぽい地形は見えるようです。
夏真っ盛りに訪問したので、ほぼ何も見えませんでした


▲駐車場
印象に残っているのはやたら立派な駐車場。
平城が辿るありがちな運命ですね・・・
◆歴史◆
南北朝時代に香坂高宗により築かれたとされます。
香坂氏は北信濃・牧城を本拠としていました。
その一族の中から大河原に移って来たのが香坂高宗です。
牧城主・香坂心覚との関係は不明です。
香坂高宗は宗良親王を居城・大河原城に迎え、30年以上に渡って支え続けました。
宗良親王は信濃宮と呼ばれるようになり、大河原城が東国における南朝方の中心となりました。
1390年頃、香坂氏は本拠を大草城へ移しました。
宗良親王の没後、香坂高宗は本拠を大草城に移しました。
大草城には元々大草氏が居ましたが、血縁関係を結んで次第に同族化したようです。
1507年生まれの香坂宗縁が大草・香坂両家の家督を継いでおり、大草休斎とも称しています。
1582年、織田軍に攻められて落城しました。
本能寺の変後、信濃に進出した徳川家康は、所領を失った元在地領主を多く採用しました。
下条兵庫介が徳川家康に出した起請文の中に大草休斎の名があります。
しかし、1591年の検地帳で大草城跡は畑として記されているそうです。
また、香坂系図にも天正年間に城を失い帰農したことが記載されています。
そのため、織田軍の侵攻により落城し、廃城になったと考えられます。
・・・これらを繋ぎ合わせて考えると、帰農した香坂氏が城跡を畑にしたんでしょうね。
所在地:長野県上伊那郡中川村大草(大草城址公園)
長野県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント