2015/02/15
大河原城/長野県大鹿村
大河原城は・・・辿り着けていません
訪問日?は2013年7月29日です。

▲福徳寺本堂
大河原城を目指す時、近くにある福徳寺を目印にします。
このお寺は本堂だけで、住職の方はいらっさいません。
何が有名かというと、長野県で一番古い木造建築物なのだそうです。
仏像の台座には平治2年(1160年)と墨で書かれているそうですが・・・
昭和28年の解体修理では、本堂自体はそこまで古くは無い事が判明したそうです。
山号の「医王山」が天台宗であることから、天台座主だった宗良親王と関係あるそうです。
・・・お城よりもコッチの方が沢山書きそうな雰囲気が漂ってます


▲案内図 拡大表示
福徳寺の本堂から大河原城跡は近いというので、ココの駐車場にクルマを停めて歩きます。
この案内図はその駐車場にあるものです。
随分ザックリしてますが・・・

▲道標
案内に従って進んだ先の交差点に写真の道標がありました。
「あぁ、200mか、近い!」と思い進んだのですが・・・
それっぽい所には辿り着けず、案内も皆無。
何度戻って確かめても城跡らしき場所には辿り着きませんでした。
地元の人が居れば道を尋ねたのですが・・・
誰にも会いませんでした。

▲迷い込んだ山の中
じゃあということで、案内の方向にある畑の中の道を進み、山中に突撃!
でも、事前にサイトで見たような城址碑や説明板が見当たらず・・・
それっぽい削平地を見つけましたが、違いますよね

リベンジするにも遠過ぎますし、改めてネットで漁るも位置がわからず。
悔しい訪城となりましたT_T
改めて案内図とGoogle Mapの航空写真と記憶を辿って推測してみました。
道標の所は十字路になっており、正面と左は舗装道、右は民家に続く未舗装道でした。
道標は正面を指しているように見えますが、右を指しているようにも見えなくありません。
行ってないのは右の道なので、もしかしたらそっちの奥に城址碑があるかもしれません。
普通に民家に続く道っぽく見えたので、違うと思ってそっちには行ってなかったのですが・・・
あまり範囲は広くないので、多分そっちが正解と思います
◆歴史◆
南北朝時代に香坂高宗により築かれたとされます。
香坂氏は北信濃・牧城を本拠としていました。
その一族の中から大河原に移って来たのが香坂高宗です。
牧城主・香坂心覚との関係は不明です。
1344年、宗良親王を迎えました。
宗良親王は後醍醐天皇の第五子とも第八子とも言われています。
天台宗の座主を務めていましたが、南北朝時代になると父の命により還俗しました。
1338年に陸奥へ渡航中に船が座礁し、暫くは井伊谷城で過ごしました。
しかし、北朝方に井伊谷城が攻め落とされると、越後、越中へと移りました。
大河原城には1374年まで滞在し、北朝の小笠原氏と争っています。
時には上野国や武蔵国まで出兵しており、信濃宮と呼ばれるようになりました。
そのため、大河原城が東国における南朝方の中心となりました。
1369年、信濃守護で関東管領でもあり上杉朝房の攻撃を受け大打撃を被りました。
そのまま劣勢を挽回することが出来ず、1374年には吉野へ戻りました。
その後、1378年に一度大河原城に戻ったことが記録されていますが、以後の足取りは不詳です。
没年は1385年頃とされ、大河原城が終焉の地の最有力候補とされています。
1390年頃、香坂氏は本拠を大草城へ移しました。
宗良親王の没後、香坂高宗は本拠を大草城に移しました。
以後の大河原城については記録が無く、そのまま廃城になったと考えられます。
所在地:下伊那郡大鹿村上蔵
長野県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント