2015/02/14
船山城/長野県松川町
船山城は大部分が林檎畑となっています。訪問日は2013年7月29日です。

▲御射山神社
城域の入口に御射山神社があります。
読み方は・・・わかりませんwww

▲城址碑
この神社の目の前に城址碑があります。
2つ並んでいますが、別々の人が建てたんですね。
仲が悪かったのでしょうか?

▲二の丸脇の水堀
神社の西側には細長い池があります。
道に対して垂直に伸びる池・・・2郭の堀跡です!
空堀ばかり見てきたので、水堀はとても新鮮に感じました。

▲二の丸
城址碑の所から果樹園の中を真っ直ぐ1本の道が通っています。
この道端に二の丸の標柱がありました。
・・・畑ですねw

▲本丸
更に真っ直ぐ進むと、今度は本丸の標柱が。
・・・畑ですねw
二の丸と本丸を隔てている堀があるようなのですが・・・
どうやら見落としてしまったようです

◆歴史◆
平安時代末頃、片桐為基により築かれたと考えられます。
片桐氏は清和源氏で、源為公の子・為基が片桐姓を名乗った所から始まります。
時代は源氏と平氏が武門の棟梁を争っていた時期で、源氏に従っていました。
1156年、保元の乱で、為基の孫・片桐為重が討死しました。
1159年、平治の乱で、為重の弟・景重は、源義朝を逃がすため六条河原で討死しました。
片桐氏の家督は子の為安が継ぎましたが、所領は平氏に没収されました。
1184年、片桐為安が片桐郷へ復帰しました。
片桐為安は所領を失った後も源頼朝に仕えていました。
源頼朝は平氏を京から追うと、片桐為安に片桐郷を安堵しました。
その時の様子が『吾妻鏡』に記述されています。
1221年、承久の乱では幕府側として戦い、美濃国彦次郷を与えられました。
この時に片桐為頼が美濃の所領へ移りました。
為頼の子孫には、賤ヶ岳七本槍として勇名を馳せた片桐且元がいます。
室町時代には信濃守護の小笠原氏に従ったとされますが・・・
1400年の大塔合戦、1440年の結城合戦以後、暫くは動向がよくわかっていません。
1554年、片桐氏は武田信玄の配下となりました。
第一次川中島合戦の後、知久氏と座光寺氏が反武田の兵を挙げました。
武田信玄が自ら兵を率いて乱を鎮圧しましたが・・・
この時、府中と鈴岡の小笠原氏とも戦って、両小笠原氏は信濃を追われました。
片桐氏や大島氏など春領五人衆は武田軍に降伏し、以後五家で50騎の軍役を担いました。
1582年、片桐氏が滅亡しました。
織田信長が信濃に侵攻した際、片桐氏は抵抗しました。
この戦いでは武田信玄の弟・信廉が大島城を捨てて逃げましたが・・・
片桐政忠(昌為)は織田軍と戦って討死しました。
その長子・片桐長公も大島城で討死しました。片桐城はこの時に廃城となりました。
所在地:長野県下伊那郡松川町上片桐
長野県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント